けいこさんのブログ

ときどき、料理教室。ときどき、お菓子屋さん。ときどき、ハンドケアと食養指導士。まいにち、わたし。

きりんと夏休みの宿題。

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昨日、図書館へ行きました。

図書館が改装工事で、もうすぐ長期のお休みになるので、

本をたくさん借りよう!と子どもたちが張り切っていました。

 

りららと恐竜図鑑を座って読んでいると、小学生の女の子とお母さんがやってきました。どうやら、小学校3年生らしい。

 

ドーンと机に置かれたのは、どうやら夏休みの宿題のようです。

お母さんは、指導モード全開で、赤ペンで◯やら☓やらチェックして、

間違えていた箇所を指差して、

「ここ、違う。やりなおして。」

子どもは「ねむ~い」「だる~い」と机の上に伸びています(^_^;)

 

しばらく母娘のやり取りを聞いていると、一方的な指導が続き、

間違えた問題を子どもがどう考えて、その答えに行き着いたのか、

というようなことには一切触れることはありません。

プリントには沢山の付箋が付いていて、お母さんのチェックが入って

いるようでした。

 

子どもが、やる気を見せないと、

「だらだらすんな!」

「図書館は20時まで開いてるんだからね!」

20時までやるつもりなのか・・・(^_^;)

 

子どもは、何度もトイレに立ち、自分なりに息抜きをしているように見えました。

(トイレからなかなか帰って来なかったりする。(笑))

 

これで勉強が好きって思えたら、ある意味凄いな~(^_^;)

と、思いながら、恐竜についてりららが話してくれるのを聞いていました。

 

きりんも自分の借りたい本を選びながら、

その母娘のやり取りをしばらく観察していました。

 

そしてボソッと一言。

「勉強、大変そうだね。」

「そうね~。夏休みの宿題やってるみたいだね~」と私が言うと、

 

「宿題のプリントなんて、裏紙にしちゃえばいいのにね~。」

 

(≧∇≦)

 

それ、みんながみんなしてませんから!(笑)

我が家ではそれが有効利用の方法のひとつですが・・・・(^_^;)

 

学ぶことは、楽しいものである、と思います。

知りたい、やりたい、から湧き上がる気持ち。

 

 

「宿題をやる」ことがあたりまえである、という状況に置いては、

親も、「やらなければ子どもが困る」と必死なのでしょうし、

「やらない」という選択肢などないのだと思います。

 

学びが子どもにとって、「やらなくてはならない事」になった時、

学びに対してどのような気持ちになるのかなぁ・・・と思いながら、

図書館を後にしました。

 

しかし、「宿題のプリントは裏紙に!」って。(笑)

そんな標語が流行ったらある意味凄いな。(≧∇≦)

 

 

 

「あたりまえではないこと」の積み重ねの中で育つことの有り難さ。②

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幼稚園スタッフMさんが家族キャンプの前日に、こんな話をしてくれました。

 

「家族キャンプの準備で、めっちゃ暑い日に、広場の草刈りをしていて、

その草を沢に投げていたんだよね。で、ふとみたら、きりんも同じように草を

運んで作業してくれてたの。でも、『ありがとう』と声を掛けるのは違う感じがしたんだよね。自分にもできることを、ただやってる、っていう雰囲気で、『手伝ってくれてありがとう』というのは、上からの目線になっちゃうなぁ・・・なんて言えばいいかな~って思って最後まで考えてたんだよね~終わった!イエーイ!ってハイタッチするのが一番良かったかな~なんて思ったけど(^^)」

 

この話を伺って、

「ありがとう」という言葉かけひとつにも、こんなにも心を配ってくれている・・・!

ということに、驚きと共に感謝で胸がつまりました。

ありがたいなぁ・・・・。

 いかに、上下の関係でなく、横の繋がりを大切にしてくれているか。

「子どもだから」ではなく、「一人の人として尊重されているか」。

 

その時のきりんは、きっと、

お礼を言われたいとか、褒められてたいとか、認められたい、とかではなく、

単に、そこに居て、自分に出来ることをしたに過ぎなかったのでしょう。

それも、私の想像でしかありませんが・・・・。

 

きっといつもスタッフがどんなに大変だと思われる事柄も、

「あたりまえのこと」として、楽しみながらしてくれてる姿を観て感じて、

そのようにしたんじゃないかな、と想像したのでした。

 

Mさんの感性にはいつもいつも支えられ救われ、気づきを沢山頂いています。

繊細な感性と、ユーモアと愛。

勝手に私の心の師だと思っています。(笑)

 

「あたりまえ」のようにしてくれていることが、

いかに「あたりまえではないこと」であるか、「有難いこと」であるか、

それを日々感じられる環境であること。

 

こどもたちの中にそれは深く、強く、根付いていくのだと思います。

これからどんな社会で生きていくのかわかりませんが、

その時にこの「あたりまえでなはない」ことの積み重ねの中で

育ったことが、彼らの揺らぐことなき根となり、生きることを支えてくれる。

私はそう確信しています。

 

そして、こどもたちには到底及ばないながらも、

私も少しづつでも、成長してもっと自分を見つめて生きていきたいと思います。

 

「あたりまえではないこと」の積み重ねの中で育つことの有り難さ。①

 

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幼稚園の家族キャンプが終わりました。

毎年、この時期に行われる家族キャンプには、卒園した家族も訪れ、中学生・高校生の姿も見かけます。

 

今年は、私が妊娠中、りららは幼稚園に泊まらず、家に帰りたいといいます。

夫は仕事、と、テントを建てて泊まる調整がつきそうにありません。

 

キャンプを楽しみにしているきりんに、事情を話し、

「今年はテントを建てて泊まるのは難しい」と話をしました。

初めは、ポロポロ泣いていたのですが、自分の中で折り合いを付けてくれて、

「出来るだけ早くいって、出来るだけ遅くまでいたい。泊まれないのはわかった。」

と納得してくれました。

 

早朝の清々しい空気の静かな時間に虫採りをするのを毎年楽しみにしている彼にとって、その折り合いをつけることも、きっと大変なことだったと思うですが、

今の我が家の状況を受け入れてくれたのでした。

 

そんな話を幼稚園のスタッフにしたところ、

「きりんだけ、寝袋で園舎の中に泊まればいいんじゃない?」

「いいよ~きりんだけ置いていって。」

と口々に言っていただいたのでした。

 

私と夫は、最後まで、

「キャンプ中は、人の出入りも多いし、いつもと違う雰囲気になるし、

きりんだけ泊まって何か迷惑をかけてしまったら、申し訳ないなぁ・・・。」

と最後までその言葉に甘えていいのだろうか、と悩んだのですが、

きりんが「一人でも泊まりたい」というので、スタッフや、泊まる予定のある

家族に気にかけてもらえたらありがたい、と、お願いすることにし、

我が家の家族キャンプがスタートしたのでした。

 

朝は仕事に行く前の夫が朝ごはんのお弁当を届け、

私が昼食と夕飯を準備して、早めにりららと幼稚園に行く。

そのように話し合いキャンプ中を過ごすことにしました。

 

園舎内のスタッフのいる2階の部屋に一番近い場所が空いていたので、

そこに荷物を置いて、寝るスペースを確保させてもらいました。

初日の夜は、仲良しの友達と寝袋を並べて泊まったようです。

 

二日目の朝、幼稚園に行ってきりんがいるはずのスペースを見上げてみると、

段ボールで入口が出来ていて、なにやら屋根もある!!!!

近くに行くと、なんと!

その屋根は、不要になった大きな封筒をスタッフに頂いて、

その封筒をすずらんテープに貼り付けて作られていました。(写真を撮り忘れました・・・(^_^;))

 

園舎内は狭くなってしまうので、簡易テントを張ることはできないので、

自分でスペースを「囲う」工夫をしたようです。

さらに、木の枝を外から見つけてきて、それを帽子の掛けるフックにしていました。

「自分の基地」として、居心地よく工夫したのでしょう。

上からビニール袋を吊るして、夜はその中に懐中電灯を入れると電気みたいになるんだよ、と、説明してくれました。

 面白いなぁ。

 

 スタッフや他のお母さん、お父さんが「基地に入れてもらったよ~!」

と嬉しそうに話してくれるのも、ありがたく嬉しいことでした。

きりんのやっていることに寄り添って、面白がってくれる。

 

二日目の夜、仲良しの友達は皆、帰宅してしまっていたのですが、

「泊まる」という意志は固く。

夜11時近くまで夫が居てくれたのですが、半分帰りたい気持ちもあったのか、

「帰ってもいいし、泊まってもいいよ。どうする?」と聞くと、

涙ぐみながら、「泊まる」と決断したそうです。

「早朝から、好きな虫採りを存分にできる」という特別な時間を、

彼は選んだのでした。

 

その話を聞いて、「夜中に泣いたりするかもな~」と思った私の予感は的中し、

夢をみたのか、泣いたらしいのですが、泊まっていた他のお母さんがトントンと

してくれたそうで、直ぐに寝てしまったそうです。

こんな風に皆さんに見守って頂いていること、本当にあたりまえではないな、

ありがたいなぁ・・・としみじみ思いました。

そしてそのお母さんの話によると、寝ている時も、虫籠を肩から下げた

ままだったそうです。(笑)どんだけ!(笑)

 

最終日の夜も、やはり泊まるという意志はゆるがず、楽しそうに過ごしていました。

最終日は昼間に子どものスポーツ大会、夜に大人のスポーツ大会があり、

バレーボールが行われます。

 

その大人のスポーツ大会の最中に、試合を中断してスタッフYさんが、こうアナウンスしてくれたそうです。

 

「きりん、ヘビトンボがいるよ~!」

 

バレーボールネットに泊まっていたヘビトンボを見つけて、虫好きのきりんにアナウンスしてくれたというのです。

 

 

そして、きりんが、虫採り網に虫籠を携えたお決まりのスタイルで現れるまで、

みんながヘビトンボに触ることなく、待っていてくれたそうです。

試合の途中なのに。

あぁ・・・こんな幼稚園、他にないよなぁ。と話を聞いて、ジーンと

しました。

 

小さい頃から、こんな風に「好きなこと」「やりたいこと」を

多くの方々に見守って頂き、尊重してもらい育っていること。

 

私が朝、幼稚園に行くと、多くのお母さん方が、きりんの様子を話して

くれます。家族の居ない所での彼の姿をその話しから思い描きます。

家族以外のまなざしから、私もまた、私のイメージしている以外のきりんを知ることになります。

そこで、自分の見方が、いかに狭く偏った物になりがちであるか、という事に気づくのです。

 

 

家族キャンプに子ども一人でも泊まっていいよ、と受け入れてくれること。

スタッフや、多くのお母さん、お父さん、に見守ってもらえること。

こうして育っていけることは、決して「あたりまえ」ではない。

 

この様な、あたたかな「まなざし」の溢れる環境が、「あたりまえ」の

地域社会になったらいいのに。

 そして、「ありがたい」とは「有難い」ことで、

「決してあたりまえではないことを、していただいている。」

と感じ、大きな感謝に包まれます。

 

ありがとうございます。

 

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 ↑幼稚園に入園した頃のきりん。ちっちゃっ。(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

きりん語録・りらら語録。

 

 

  

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 先日、出掛ける直前に、きりんが自分の虫籠が行方不明だといって、

探ていましたが、見つからず(^_^;)代用のものを何か用意していました。

 

その間、私とりららは、車の中で待っていました。

しばらく待ってもなかなか来ない。

 

「お待たせ~」とやってきたきりんに、りららが、サラリと一言。

 

「ずっとみんな待っていたんだから、待たせてごめんね、とか言ったほうがいいんじゃない?」

 

あはは。(^_^;)

私も夫も普段そういった事を言わないのに、どこで獲得するんだろう。(笑)

色々な人との関わりの中でそう感じたり、見聞きしたのかもしれません。

 第一子、きりん、プライドもあるので、ムッとしてましたが。(笑)

しかし、本当にサラリと言えるのが凄い。他意がない。

大人は(私は、か。)もし、こういうことを言わねばならないと思ったら、

、嫌な感情を含みがちになってしまったりすると思うので・・・(^_^;)

 

 

さて、きりんは、まだ雪が積もって居る頃から、

春になったら虫学校をやりたいな~と言っていました。

今は、「生き物探しコンテスト」に写真を出したくて、デジカメを自分のお小遣いで

購入し、毎日200枚近い写真を撮っています。

 

お友達のお母さんに、

「虫学校はいつからはじめるの?」と聞かれて、

「学校っていうのは、興味のある人が、自分で虫や生き物を探したり触ったりして、

なんでかな、どうしてかな、って自分で感じて、知りたいって思わないとできないでしょ。そういう気持ちにならないと学校は、できないかな~。」

 

というようなことを答えたそう。

 

学校も昔々、そんな気持ちから出来たんだろうな。

「学びたい」「知りたい」という気持ちからしか始まらないんだろうな。

それがいつの間にか、「行かねばならない」場所になってしまったのは、何故だろう。

そんなことを思う一言でした。

 

 

 

楽しいことは、特別なことじゃない。

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眠る前に布団の中で、「今日は何が一番楽しかった?」と話すきりん。
 
「きりんはね、お母さんとご飯食べに行ったり、温泉にいけたことと、お父さんが早く帰って来たこと!」
 
「りららは、一番は、お父さんが早く帰って来たこと!」
 
お父さんが大好きで、何かしてくれるとか、してくないとか、そういうことを越えて、
お父さんが傍に居てくれるだけで、嬉しくて楽しい。
 
「早くお父さんの仕事がなくなりますように。」と短冊に書く位、家に居て欲しいらしく。(笑)
 
こうして、家族で過ごせる時間は有限であって、いつかはそれぞれ旅立つ。
 
時は瞬く間に過ぎていく。
目の前にある「今」をどれだけ感じられるだろう。
 
何も特別なイベントがなくてもいい。
日常の中に楽しいことも、嬉しいことも、詰まってる。
その中に思うようにならないことも、たくさんある。
そんなこともひっくるめて、
こどもたちは、「今日も楽しかった!」と眠りにつく。
 
子どもたちの寝顔はどこまでも健やかで、いつ何時もこころが洗われます。
 
 

「共通項」にご用心?!

 

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お友達のFbに、「共通項があると距離が縮まる感覚」について、書かれていました。

「共通項」があると、なんとなく親近感を覚えやすい。

これも、事実ではあると思います。

 

同じ出身地とか、血液型とか、同じ趣味とか・・・

まぁ、探せばいくらでもあるわけで。

 

その最たるものが、「ママ友」というものではないかと思います。

個人的には、「こどもがいる」という共通項だけでは、仲良くなれない。

と思っています。(笑)

こどもがいるけど、こどもに対する考え方とか、接し方とか、

大事だと思う部分はとても微細に違うと思うのです。

こどもが居なくても、その心を機微を感じ合える方々が私の周りにはいます。

 

夫婦もそうなのかもしれないなぁ・・・・なんて思います。

出逢ったきっかけは、同じ趣味であるとか、同じ学校であるとか、

何かしら共通項があり、それがきっかけとなり、親しく思ったり。

 

自分と夫の関係を振り返ってみると、共通項ってなんだろう?

 

音楽の趣味も、洋服の趣味も、読んでいた本の趣味も違う。

育った環境も兄弟と姉妹で違う。

強いて言えば、「美味しい物が好き」ってことと、

「のんびり暮らしたい」ってことくらいかな。(笑)

 

でも、その共通項を越えて一緒に居られるのは、「センス」が近いからだと思います。

 

昨年末、自分の中で様々な葛藤があり、悶々と悩んだり落ち込んだり、

何もやる気が出ない数ヶ月を過ごした時、私の中で、

「センスとは何か?」ということが、何度も何度も頭をよぎったのです。

 

センスにも、色々な意味合いがあると思います。

私の中でしっくりきたのが、

「センスとは、物事の微妙な感じをさとる心の動き。微妙な感覚。」

という表現でした。

 

私にとっては、これが重要度が高いということに気がついたのです。

 

夫、友人、知人、離れていても、長くお付き合いさせていただいている方々に

共通するのが、この感覚のような気がします。

 

わかりやすい「共通項」ではない。

本当に薄い隙間と隙間にあるような、微細な感覚。

でも、私にとって、最も大切にしたい感覚。

これがなくなったら、きっと私でさえなくなってしまう感覚。

 

些細なだけに、わかりにくいし、自分や相手のセンスを感じるには、

自分が静かに在ることが求められると思います。

ざわざわしていると、踏み込み過ぎたり、相手を知らないうちに傷つけたり・・・

寄り添っているという自己満足でしかなかったり。

 

共通項を探すより、

相手のセンスを少しでも感じられる生き方をしたい。

 

なかなか難しいけれど、静かに他の人のセンスを感じる余裕のある自分が、

日々の中で少しづつでも増えていったらいいなと思う今日このごろです。

 

 

 

「できる限り、何もしない」ということ。

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↑去年、蛹になったアゲハが、無事羽化しました♪

 

2017年の抱負として、

「できる限り、何もしない」「静かに在る」と、このブログに書きました。

先日、「あれは、どういう意味なのかな?」と聞かれたので、

そのあたりを、少し書いてみようかと思っています。

 

私たちの世代(世代を越えているのかもしれませんが。)は、

「大きくなったら何になりたいの?」と、周りの大人から聞かれることは、

日常茶飯事でした。「おはよう!元気?」って聞くのと同じように、

親戚などには、会う度に聞かれていた気がします。

 

基本的に生真面目なこども(こどもとは、概してとても真面目というか、誠実だと思う。)だったので、

聞かれたことに、大人が納得するような答えを用意していないと、

自分がいけないことをしているような気になってしまい、

本当は、たいしてなりたくもないのに、

「学校の先生になりたい」などど、答えていました。(^_^;)

(あらゆる意味で、現実化しなくて、本当に良かったと心から思います・・・・苦笑)

それもある意味、自分を守る手段のひとつだったのかもしれません。

 

その様に、「何かになること」を無意識に求められてきた。

と思うのです。

「あなたが、どんな職業に就こうと、就くまいと、あなたであることに変わりないよ。」

と言われて育っていたら、どんな風になっていたかな、と思うことがあります。

 

本来、何かになるとか、ならないとか、

どんな学校にいくとか、

どんな職業に就くとか、

そういったことは、私の人間性とは別のものです。

 

「誰かのために」「みんなの為に」「人の役にたつことが素晴らしいこと」

そう、教育されてきたと思います。

 

でも、それには、

まず、「私」として、「しあわせに生きている」ことが、

自分にとって、周りの人にとっても、大切であると思うのです。

 

夫や家族に対しても、友人に対しても、

「何かを成してくれているから」大切だと感じるわけではなく、

そこに居てくれるだけで、しあわせ。なのです。

 

そう思うと、

「別に何かを成そうとしなくてもいいのではないか?」と思ったのです。

 

私が、元気で機嫌よく、そこにいるだけで、いいんじゃない?と。

静かにそこにいるだけで、いい。

それだけで、知らないうちに誰かの役にたってることもあるかもしれない。

それが目的でも目標でもないので、他者から評価される為に、私は在るのではない。

 

正直にいうと、他者からの評価が、気になりません。(笑)

 

余程、信頼関係ができている相手に言われたら、それなりに気にはなりますが、

それは、関係性に基づくものであり、信頼関係が出来ている相手ほど、評価めいた

ことは言わない気がします。(あくまで、私の経験では、ですが。)

 

「人がどう思うか」ということは、「その人」が判断することであって、

私の手を離れているので、どうすることも出来ないと思うからです。

自分でどうすることも出来ないことに、いちいち気を揉んでも仕方ない。(笑)

 

どうしたら、そこまで割り切れるの?と聞かれることもあるのですが。(笑)

「他者の評価に自分を委ねる危険性」を今まで沢山感じ、経験したからかもしれません。

 

 

年末に自分と向き合う時間の中で、色々感じながら過ごし、

少しその悶々とした時期から抜けかけて来た時、

妊娠が判明し、悪阻で、新年の抱負そのままに?(笑)

全く何も出来ない状態。になったのですが(^_^;)

 

普段、口数のさほど多くない方が、そのような状況の時に、

「佳子さんは、そのまま、そこに居てくれるだけでいいんですよ。」

とサラリと言ってくれて、それがまた、なんとも心に染みて・・・・。

 

私が何もしなくても、

そこに在るだけでいいと、感じてくれている人がいるんだ。

 

そんなことがあった、この4ヶ月間。

妊娠して、身体も思うようには動かないこともあり、

ますます、

「できる限り、何もしない。」というか「出来ないでしょ。」と言われてる気がします・・・・。(^_^;)

 

そんな日々になりそうです。

それでいいんだな、と思います。

 

 肩書はいらない。

私は、私で在る。

それだけでいい。