けいこさんのブログ

ときどき、料理教室。ときどき、お菓子屋さん。ときどき、ハンドケアと食養指導士。まいにち、わたし。

事件は、家庭で起きている。

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去年のクリスマスの出来事。こんなことが起きていたのね。(^_^;)

今年は、どうなることやら・・・・。

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

「事件は現場で起きている」というドラマのセリフがありましたね。

(殆ど、観たことありませんが・・・(^_^;))

 

家庭でも、毎日、あらゆるドラマが繰り広げられており、

飽きることがありません。

 

クリスマスにヘリコプターのラジコンをプレゼントで貰ったきりん。

毎日、操縦の練習に余年がなく、操作方法など研究しています。

 

一方、ミニカーのラジコンを貰った、りらら。

3歳で操作できるくらいの機能をオトウサンタが検討しました。

 それぞれとか、一緒にとか、遊んでいて、急に些細なことで揉める。

よくあることです。毎日です。年中です。

 

昨日も、なにやら揉めていました。

私は料理をしていて、後方で騒いでいるな~と思っていました。

 

次の瞬間、きりんの叫び声が響き渡りました。

「りらら!なんてことするんだ~~~~~~!!!!!」

 

現場に行ってみますと、きりんのラジコンヘリが、

りららのオマルの中に落ちています。

しかも、オマルの中には、先程したオシッコ在り。

 

ラジコンヘリ、水没。

しかも、オシッコの中に。

 

きりんの繰り返すちょっかいに怒ったりららが、

オマルの蓋を開け、中にラジコンヘリを投げ落としたそうです。

やるな!次男!なかなかのワルっぷりで逆襲。

 

 

精密機械の水没。

きりんが、リモコンを動かすも、全く反応なし。

 

きりん、号泣。大号泣。

 

やれやれ。

 

夫に、現場の状況をメールする。

どないしょ~。

 

「さっと洗って乾かしてみて」

 

ダメ元で、さっと洗って、

携帯をトイレに落として、ストーブで乾かしたら復活したという話を

思い出しドライヤーで乾かしてみる。

 

乾かすこと、数分。

なんとか、動いてくれるといいなぁ・・・・

もし、駄目だったらどうしよ。

もう一台買うとか?(-_-;)

 いろいろぐるぐる先を心配する癖、全開。(笑)

 

一通り、乾かして、きりんが、リモコンを動かすと・・・・

 

「う、動いた~(T_T)!!!!!」

 

よかった~。ホッ。

 

号泣するきりんを見て、りららが、

「あ~きりん、泣いちゃってるから、ごめんって言ったほうがいいかなぁ・・・」とポツリと呟いていました。

 

ラジコンヘリが直った後、二人は、何事もなかったように、

遊び始めました。

 

きりんは、その後、りららを責めるような事を一言もいいませんでした。

これに、ちょっと驚きました。

 

「直ったから、それでいい。」

 

ということなのかな。

 

終わった事、過ぎた事へのこだわりのなさ。

「今」を生きてるんだな、と感動さえ覚える単純な母。(笑)

 

毎日、飽きない。

毎日、ドラマチック。

あぁ、面白い。

 

しかし、喧嘩。

・・・もう少しどうにかなりませんか。

・・・なりませんね。(天の声)

・・・ですよね。m(_ _)m

 

次はカメの水槽に落ちないことを願う!!

(冬でカメの水槽がリビングにあるのです・・・。)

「何かしなくてはならない」という思い込み。

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少し前に友人と話していた時のことです。

 

彼女は、「小さい時から、親の望むように動いてきた」「何かをしなくては」と思ってきた。親の為に、常に何かをしていることで、評価されてきた、という経験を話してくれました。

 

私たちの世代は、「褒められるために」「認められるために」何かを成すという教育を刷り込まれてきた世代だと思います。

 

何かしていないと、誰かの役にたっていないと落ち着かない。

何もしていないという罪悪感に苛まれる。

 

私自身、そういう心境になることも多くありました。

でも、今年の始めに抱負としてもあげたように、

「出来る限り何もしない」毎日を過ごしています。

それでも貧乏性?なのか、家でなにかしらやることを探してしまったりする

癖がまだまだ抜けません。(^_^;)

 

その友人の話を聴き、彼女が私に何かしてくれるから好きなのではないということ、

そこに居てくれるだけでいいんだもの。ということだけ伝えました。

 本来は、すべての人がそういう存在なのではないかと思います。

 何かをしてくれたから、好きなのではない。

 

センスの合う合わない、相性はあるとは思いますが、

それは、相手の存在を認めることとはまた違うことだと思います。

 

何かしてくれから、存在を認め、評価しているわけではない。

 評価というもの自体が、曖昧で、片寄りのあるものだと思います。

 

そこにいる。そこに居てくれる。

 

それだけで充分。

 

私も、あなたも。

 

 

 

 

余白のある言葉。

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このところ、文章を書くということが、やや億劫な私がいます。(^_^;)

でも、忘れたくないこと、自分の中の整理として、書き留めておこうと思い、

久々に書いています。

 

現在、無事に妊娠30週。8ヶ月後半になり、妊娠生活も後期に入りました。

お腹の中ではポコポコと元気に動いている様子に慌ただしく過ぎる毎日の中、

ちょっとでも意識を向けていこうと思いながら過ごしています。

実際は、朝や夜、布団に横になり初めて意識することが多く、ごめんよ~と思うのですが。(^_^;)

 

私が出産予定の産婦人科は、基本的には医師が医療介入をしないという方針のクリニックです。

りららも4年前に同じ病院で出産しました。

 

今回、健診などで、初めてお会いした非常勤の産科医の先生との出逢いがありました。

allabout.co.jp

 

子どもたちの質問にも丁寧に答えてくれる様子、やりとりから、

初めてお会いしたときから、親近感と信頼感を覚えました。

そして、先生の活動やお仕事の様子をオフィシャルページで拝見し、納得しました。

(興味のある方は、読んでみてください。)

 

さて、先日の健診でのこと。

私は通常のときでも、やや貧血傾向で、妊娠するとさらに貧血になる傾向があります。

(赤ちゃんに血液が集まるので、自然な流れでもあるようです。)

血液検査の結果を診て、先生が「鉄剤を出させてもらうね。」とおっしゃったのです。

 

私は、驚きました。

 

それは、鉄剤が処方されることにではありません。(笑)

 

「出させてもらうね、」という先生の言葉に。

 

「処方するので、飲んでください。」ではなかったのです。

 

「出させてもらうね。」という言い方には、

決して一方的に上から押し付けているわけではなく、

私にある程度判断が委ねられているという「余白」のようなものを感じました。

私が、感じ、考え、決めることができる、という余白。

 

そして、

「私とお腹の赤ちゃんは、〈尊重されている〉のだ。」と感じました。

 

そして、その言葉を選んでいる先生の今までの人生の中での喜びや葛藤・・・

様々な経験されているであろうことを、私の乏しい想像力ではあるけれど、

最大限想い巡らせるのでした・・・。

 

魅力的な人物に出逢えることの喜び。

お腹の赤ちゃんがくれたご縁に感謝です。

 

 

 

 

天気の良い午後、うさぎの穴に落ちることがある。

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天気の良い午後、うさぎの穴に落ちることがある。

 要注意。

 

突然にみえて 必然

 穴は深い

そして暗い

そして寂しい

真っ暗で何も見えない

 

暗闇で目が慣れると

光を感じる

暗闇の中でしか

わからない 光

 

ふと見上げれば

青空が

星空が

おひさまの光が 私を待っていてくれる

 

いつでも ここにいるから大丈夫

あわてないで 自分の力で出ておいで

出てきたくなったら 出ておいで

 

待ってるよ 待ってるよ

静かに ただ待ってるよ

 

うさぎの穴は どんなに深くても底がある

 

しっかり底を踏みしめる

ここが底だと 確かめる

全身で感じる

いま 自分のいる場所が何処なのかを

 

しっかり しっかり 踏みしめて

準備が調ったら

あとは 跳ぶだけ

 

穴から出てみたら

穴が深いと思っていたのは 自分だけ

本当は 浅い浅い ただの くぼみなのかもしれない

 

 

「勧めないこと」のススメ。

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出産前に会いたい知人がいて、良かったらと誘われたイベントに行きました。

そのイベントの趣旨やどういった集いかよく知らなかったのですが、ただ、

「知人に会いたいな」と思ったので、家族で出掛けました。

会場の様子からして、何か特定の集まりであるという雰囲気が漂っていました。

まぁ、思想も信条も自由ですので、否定するつもりは全くないのですが、

色々感じた違和感が拭えず、考えているところです。

 

そこにいらっしゃる方々は基本的に親切で、私たちは別に困っていないのに、

「どうしました?」「何かお探しですか?」とこちらの様子を心配してくれます。

それは、その方々の「親切心」なのだと思います。

 

でも、実際は、全く困っていないので、声をかけられる方がその対応に追われて、

困ったりするのです。(笑)

それが繰り返されると、私の中で、「放っておいてくれた方が親切なんだけど・・・」

という気持ちが湧いてきたりして。(笑)

困っていても、人に助けを求められない人にとっては、そのような声掛けは、

とてもありがたいものなのかもしれないのですが。

 

私たち家族が、知人のイベントでのお仕事の切りが良くなるまで、

ご飯を食べて待っていると、全く面識のないおばあさんが勢いよく話しかけてきました。何の前置きもなく、一方的に話をしています。しかも、

「この家族は何か困っている、私が教えてあげなければ」という前提があるような

お話の流れ。(笑)

私が、「何なんだろう?」「家族でご飯食べてるから、ゆっくりしたいんだけど・・・」と、段々と不快度数が上がって来た頃、きりんが、一言、

 

「誰?(-_-)・・・お母さん、知ってる人?」

  

私の代弁者かと思いました。(≧∇≦)(笑)

 

自分の中でパラダイムシフトが起きると、「自分はわかっている!」「これは良いことだらか、人に広めなければ!」「知らないなら教えてあげなければ!」という、

知らないうちに、「自分は他の人より優れている」という錯覚を起こしてしまうのではないかなぁ・・・・と改めて考えさせられました。

 

「わかる」ことなんてないのに。きっと死ぬまで。(私の場合はそう思っています。)

必要なことは、その人がタイミングで受け取ることができるし、そのように物事が

すすんでいくと思います。必要だと認識すれば、自分で行動してみようと思うし、

人にも聞いてみようと思うからです。

 

私も以前は、「良いことならお知らせしたほうが誰かの役にたつのでは」と、

自分が経験したことや、得た知識に関して思っていた時期がありました。

でも、「それは違うのかもしれない」とある時思い、何かを勧めることはしないことにしています。

知りたいタイミングもそれも人それぞれ、求めるタイミングも、受け入れることができるタイミングも違い、本当に繊細なものだと思います。

何を選ぶにしても、「誰かに勧められたから」「言われたからやってみよう」ではなく、「自分で選択したのだ」と認識できる過程が、一番大切だと思うのです。

 

だから、「勧めないこと」のススメ。が私にはしっくり来ています。(笑)

 

求めてもいないのに、勧めることは、

「大きなお世話、以外の何物でもないじゃん。」と、改めて感じたのでした。(笑)

朝から毒吐いてスミマセン。(^_^;)

 

 

何か信じることが悪いわけではないと思います。

ただ、何かに寄りかかり、頼り、「コレは絶対間違いがない」と思うことは、

危険だと感じます。絶対なんてないからです。間違うこともあるからです。

そして、それを失った時、支えをなくして自立していられるのか?と考えます。

 

自分で経験し、考えることです。感じることです。

「~さんがこう言っていたから、間違いないだろう」ということではないと思います。

 

地に足を着け、目の前の人たちのとの毎日を味わい楽しく暮らすこと。

それ以外に私に今、できることはないし、したいこともないんだよな~

と、思った一日でした。

 

何にしても、勧めないことのススメ。でした。(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どのような選択をするかというタイミング。

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書き溜めてあるブログを少しづつアップします。
少し前の事になりますが、2学期の始まりの出来事です。
先週末は、個人懇談があったですが、忘れそうな自分がいました・・・(^_^;)
夫に至っては、仕事帰りにプリントを取りに行く予定を学校の前を素通りしてきたことも。(笑)
「学校・プリント・学校・プリント・・・・」と呪文を唱えていないと忘れるようです。(≧∇≦)
 
 
*** ************
 
一昨日、夕方学校の先生が電話をくれました。
 
先生「今日から2学期始まったのできりんくんはどうしているかと思いまして~。」
私「わざわざありがとうございます。そうですね、今日から2学期ですね~。」
先生「夏休み、お変わりなく過ごされましたか?」
私「はい(^^)おかげさまで、とても元気に過ごしています。」
 
というような会話。
全く噛み合ってない会話。(笑)
「元気なら、学校きてよ~!」と、先生も思っていることでしょう。(笑)
今まで何度も、「きりんくん、どうしていますか?」「元気ですよ~!」という会話を繰り返しているのです。
 
しかし、「元気だからこそ、他にやりたいことがあって忙しい」ようなので、
そのあたりはすっとぼけた母だと思われていたほうが楽なので、そのまま通しています。(笑)
自分でもある意味、神経図太いなと思うこと度々。(笑)
 
何にしても、先生もお忙しい新学期の始まりに、子どもが元気であることの確認ありがとうございます&お疲れ様ですm(_ _)mと思いながら電話を切りました。
 
「子どもが学校や今の社会のシステムや大人の在り方に疑問や違和感を持たず、
その社会の中で暮らせることの方がしあわせなのでは?」という考え方もあるだろうし、
我が家のように、「子どもが疑問や違和感を感じ、行かないという選択」もあるのだろうと思います。
 
どちらの選択をしても、それぞれ考えること、感じることがあるでしょうし、
どのタイミングでその在り方にぶつかるかもそれぞれなんだろうなと思います。
 
そのタイミングは、小学校時代かもしれないし、いわゆる思春期と言われる時期かもしれないし、
もっと大人になった時なのかもしれないし。
もしかしたら、ずっと疑問に思うことなく命を終えるのかもしれないし。
 
だたどのタイミングであるにせよ、親として、というか、子どもの一番傍にいる大人として出来ることは、子どもが感じている違和感や疑問に寄り添うことくらいなんだろうなぁ。
 
今の学校の在り方を否定して戦うつもりも毛頭ありませんが、迎合する必要もないと思っています。
 
そして、どんどん神経が図太くなっていく自分を感じる今日このごろです。(≧∇≦)(笑)
 
 
 

「凛とした女の子におなりなさい」

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娘、生後3ヶ月になりました。

 

 

私自身、小さい頃は、「男の子に産まれればよかった」とずっと思っていて、

スカートを履くことが嫌で、男の子と遊ぶのが楽しくてたまりませんでした。

ピンクの洋服は一切着ませんでした。避けていた、とも言える気がします。

格闘技などを観るのが好きで、女子プロレスに憧れたことも。(笑)

わかりやすい形で、「強くなりたい」と思っていたのかもしれません。

 

私の親の世代は、女性は男性の生き方に翻弄されるケースも多く、

女性自身が自分のしあわせを考えるということが少なかったように思います。

「なんだか、女の人って我慢ばかりして大変そう。」と思っていました。

しあわせそうな女性が身近に居なかったのです。

そのような女性ばかりみていたので、「女性であること」への肯定感が持てなかったのだと思います。

 

実際、私の場合は、「女性として産まれて良かった」と思えるようになったのは、夫と出逢い、子どもを授かり、「産み、育む性」「多くの事柄、変化を受け入れることができる性」であるということを体感してからだと思います。

これは、一概に、出産や育児だけを通じてのことだけではないと思っています。

そのような経験を通じていなくても、素晴らしい女性は沢山います。

女性の柔軟さ、逞しさ、あたたかさ、そういった女性の方々に出逢う事ができて、私の意識も少しづつ変化してきたのだと思います。

夫が、女性に対して尊敬の念を持っていてくれたことも大きかったと思います。

 

先日、幼稚園の園長室で阿久悠さんの詩集のタイトルが目に入りました。

 

 

『凛とした女の子のおなりなさい 』 阿久悠

 

女の子だからといって

ヨワヨワしていたり

メソメソしていたり

何かというと他人を頼りにして

愛しいと思われてみたり

そんな子である必要はないのですよ

 

助けてやりたいとか

庇ってやりたいとか

守ってやりたいとか

男にとってはいい気分だろうけど

そんなものは美徳でも

魅力でもありゃしない

 

いいかい 女の子だって

強くってもいいんだよ

粗雑であったり

乱暴であったり

不行儀が平気は困るけど

 

ちょっとした挨拶の誠意と

心地よい笑顔の会釈と

問われた時にハイと答える

意志さえ感じさせれば

強くっていい

 

男は自分が弱い者だから

縋りつく子を抱きしめるが

そんなのは三日だけの愛しさ

あとは只の重荷になる

 

傷つけないようにハッキリと言い

侮辱を感じさせない態度をしたら

 

あとは自由に生きなさい

強く生きなさい

自由で強くてやさしい子を

凛としていると言います

 

凛とした女の子になりなさい

凛とした・・・・

 

近頃いないのです   

 

 

この詩に、「女の子だから・・・」ではなく、もっと深いところで生きる上での逞しさと潔い美しさを兼ね備えた「在り方」を感じました。

女性であることを、楽しみ喜び、性別を越えて、自分自身を好きになって欲しいと思います。そして、のびのびと、何処までも自由に生きて欲しいと思います。

 

女性に産まれて良かった、と今、私は思っています。

 

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