けいこさんのブログ

ときどき、料理教室。ときどき、お菓子屋さん。ときどき、ハンドケアと食養指導士。まいにち、わたし。

父とのこと。

f:id:keiko-san:20160813101136j:plain

私の父は、昨年4月に他界しました。

75歳でした。

60歳代後半に若年性アルツハイマーを発症し、

初めは自宅で母が介護をし、デイケアセンターや、

短期でショートステイを利用していました。

4人兄弟で末っ子。

父親を小学生になる前に亡くし、

母親に育てられたようです。末っ子ということもあり、

比較的自由に育ったようですが、

とても寂しがりやで、怖がりの一面がありました。

父親の存在が乏しかったようで、自分が父親になっても、

父親」というものが、どういうものかよくわからないようでした。

 

私の祖母(母親の母)をとても大切にしていたようで、

「母親の愛」をずっと求めていたようです。

母は、自分の母親が私の父を気に入ったので、

親の事も大事にしてくれるだろうと思い、結婚したそうです。

 

親が気に入ったから結婚って、自分には考えれらない事ですが、

時代がそういう背景を産んでいたのでしょうね。

 

私は、幼少期、父親っ子でした。

気分屋ではありましたが、基本的に陽気な人だったと思います。

 

小さい頃は、父にひどく怒られた記憶がありません。

野球好きの父がビールを飲みながら、

テレビ観戦する膝に私が座わり、ご飯を食べていたのが、

夏に思い出される風景のひとつです。

 

外回りの営業をしてた時は、私を車に乗せていき、

仕事が終わるまで車の中で父を待ち、

仕事先の社食に一緒に連れていってもらうことも度々ありました。

 

男の子が産まれたら野球をやらせたかったらしく、

小学生になった私を有無も言わさず、

地域のソフトボールクラブにいれました。

練習や習い事が嫌いだった私は、最初は嫌でたまらず、

ボールが怖くて逃げてはチームの監督やコーチに叱られていました。

 

思春期に入り、色々考え、今までの積み重ねの中で、

両親に対する疑問や不満は募りました。

父に対しても、同様です。

自分の楽しみであるお酒やソフトボールに夢中で、

病気になるまで、家族で旅行に行ったことすらありませんでした。

 

父は、家族というものの在り方を考えたことは、

恐らくなかったか、

家族というものどういうものであるか、

経験したことがなかったのだと思います。

そして、自分や、家族に向き合うことなく暮らしていたのだと思います。

 

 

笑い話としてよく話すのですが、父は私がどこの高校に行っていたかもしりませんでした。(笑)

干渉されなかったというより、人して、興味がなかったのだと思います。

まぁ、干渉されて口出しされるよりはマシだったのかもしれないと、

今は思いますが。(笑)

 

そのような親子関係でしたから、

父が亡くなった時、根源的なルーツを断たれたという寂しさはあっても、

父が居ないから悲しい、という気持ちになりませんでした。

それが、とても悲しかった。

そういう関係しか父と築くことができなかった、という事実。

親子としても、ひとりの人としても、

向き合うことが、歩み寄ることができなかった。

それがとても悲しかったのです。

 

私は、父のことを思い出した時、

父が何に心を動かし、

何を大切にして生きていたのか、わからなかったのです。

 

きっと父も同様だったでしょう。

私が何を大切にしていて、何に心躍らせているか、

知らなかったと思います。

 

もちろん、父の人生を全て知っているわけではありませんが、

きっと、ずっと寂しさを抱えた人生だったのではないかと思います。

 

父の死を迎えた時、改めて考えました。

 

私は、これから自分がどう生きて、

パートナーである夫や、子どもたちと、家族として、

それぞれひとりの人として、

どんな関係を築いていくことができるだろう?

 

私はわたしとして、矛盾なく、生きていきたい。

 

自分と向き合い、

パートナーと向き合い、

子どもたちの邪魔をせず、

「楽しかった、最高!」とこの人生を終えて旅立ちたい。

 

お父さん、天国では、本来の陽気さを発揮して、

楽しくやってるんだろうな。

あ、お盆で帰ってきてるのかな?

あなたに似て、アバウトな娘でごめんね、お父さん。(笑)