羊飼いの少年と狼。
前回、「きりんが、りららにしつこくし、喧嘩になる」
ということを書きました。
昨日も、私が家の外でゴミ箱を洗っていると、
「かあちゃ~ん!どこ~!」と泣き声が聞こえます。
私は、真っ先に、
「また、しつこくして、喧嘩になったんだ」と思ったのです。
泣き声は2階からしてきたので、様子を見に行ってみると、
りららが泣いています。
どうしたの?と聞くと、きりんが、
「窓の隙間に指が挟まって取れないから、取ってあげようとしたんだけど、お母さんにやってほしいって泣いてるんだよ。」と言います。
しつこくして喧嘩になったのではなかったのです。
そして、ふと、このタイトルである、
【羊飼いの少年と狼】の話が思い浮かんだのです。
この童話は羊飼いの少年が、退屈しのぎに、
狼が来たと叫んでは、慌てる村人を見ては喜び、
最後には本当に狼が来たことを知らせても、
誰も信じてくれず、自分が番をしていた羊が食べられてしまう、
というお話です。
どうして、このお話が思い浮かんだのか、というと、
羊飼いの少年は、どうして嘘をつきたくなる状況だったのだろう?
と思ったのです。
もし、彼のおかれている状況が、
嘘をつかなくてはならないような環境や人間関係だったとしたら、
悪いのは嘘をついた羊飼いの少年だったと言い切れるのだろうか?と。
彼にどのような背景があったのだろう?と。
それが、きりんとりららの喧嘩に何の関係が?????
とお思いかもしれません。(笑)
私の中で、
「りららが泣く」イコール「きりんがしつこくしている」
という思い込みの構図が出来上がりかけていた。
それが、騒ぎを覗いてみたら、指が挟まっただけだった。
そうか、
私の思い込みが、「きりんがりららにしつこくしている」
という構図を産みだしていたのだ!
羊飼い少年が「嘘」をつくという行動で、何を伝えたかったのか。
そして何故、嘘をつかなくてはならなかったのか。
村人が、「少年は嘘つきだ」という概念に因われていなければ、
どうなっていたのだろうか。
そもそも、「しつこくしている」というのは、
私の概念に過ぎない、ということだと腑に落ちたのです。
りららは、きりんが大好きで、
喧嘩していても、やっぱり大好きで、
「しつこいから嫌だ」と思っているかどうかさえ定かではないのです。
もし、りららが、そう思っているとしたら、
「私の概念」が、そう思わせてしまっているのだ!とわかったのです。
腑に落ちたら、気が楽になりました。
そして、羊飼いの少年のついた「嘘」が悪いと言われるとしても、
「羊飼いの少年が悪いのではないのでは?」と改めて思ったのでした。
兄弟喧嘩も、泣いたり、泣かされたりも、
悪いことではないのだと思います。
ジャッジする必要はなく、ただ見守るだけでいいのかもしれません。
私の中の
「きりんが、りららに対してしつこくし、泣かせることを責める気持ち」
を手放す時なのだと実感したのです。
まだまだ自分の皮むき作業は続きます。
まだまだまだまだです。