伝えにくいことを、伝えること。つづき。
↓南瓜の米粉マフィン。南瓜って、ほんとうに甘いなぁ。しあわせ。
伝えにくいことも、自分の心の声に耳を傾けて、
相手にも自分にも誠実に伝える。
そんなことを少し前に書きました。
そのあとも、そのことについて、自分の中で、
「本当にそうかな?」「どうなんだろう?」と思いながら、
この数日過ごしていたので、
再びこのテーマについて書いてみようと思います。
伝えにくいこと、ということは、
①相手が明らかに喜ばない、傷つける可能性がある事柄である
②自分に対して、相手が不快感をもつ可能性が含まれている事柄である
③相手が伝えた事柄を、受け入れることができる状況ではない可能性がある。(人によってそのタイミングは違いますから。)
ということが、考えられると思っていて、
本来は、相手がどう思うかは、相手の問題ではあるのですが、
それを認識していない相手の場合は、
憎悪や嫌悪・怒りなどの気持ちが私に向くこともおおいに考えられる。
それに対して、
①私は、どうしてそれを伝えようと思うのか。
②私は、相手を正そうと思っていないだろうか。
③そこに愛があるのか。
と考えたとき、
①自分しか、その相手に伝えられる関係ではないからという
責任感から伝えようとしていないだろうか。
②自分が間違っていない、と主張したいだけなのではないか。
③誰かに「言って欲しい」との要望に応じようとしているだけで、
自分が肚の底からそれを「伝えたい」と思っているのかどうか。
そんな事を見つめてみました。
その上で、「伝えない」「言わない」ことも、
ひとつのコミュニケーションなのかもしれないと思ったのです。
結局、伝えても、伝えなくても、
どちらの選択をするにしても、
本当に、心から自分はそうしたいのか。
を、自分で自分に聴くことが大切だなと。
すこしでも、躊躇するのであれば、
それは頑張って伝えなくてもいいのだと思うのです。
頑張らねばならないという事自体が、
本来したくないことなのだと思うのです。
そして、敢えて波風立てたくない、と私は思っているんだなと
思ったのです。
わざわざ、相手の憎悪や怒りやらの対象に進んでなる必要もない。
そういうケースは、相手が常に、憎悪・怒り・嫌悪・嫉妬の対象を
探している可能性が高いので、そこにエネルギーを費やしたくない。
自分を消耗させたくない。
同じ様なことで、困って居る人が他にもいるから、私が、伝えよう。
伝えなくては、と思っていた自分がそこに居たのです。
でも、それは、
自分が本当に伝えたいと思っているのではなく、
誰かのために、やろうとしていたのです。
「見ざる 言わざる 聞かざる」
日本のことわざって、深いです。
風のふくまま、ただただ、見つめる。
余計なことは、見ず、言わず、聞かず、自分の平和を大切にしよう。
肩肘張って、頑張って、波風立てるよりも、
私には、こちらのほうが合っている気がします。
そんな中でも、
愛をもって伝えたい、と思うなら伝えよう。
あらゆることを、手放して、あとは宇宙に、
神様におまかせしよう。
そんなことを思った朝です。