きりん語録。~「想像力の欠如」と「記憶の再生」~
「感情の揺れ(揺さぶられ)」 とは、ささいなきっかけで起こります。
というより、そこにあるのは、
「想像力の欠如」と「様々な刷り込みによる記憶の再生」
なのかなとも思います。
先日、それがまたひとつ出てきました。
私のPCデスクの足元に、玩具の剣がありました。
「なんでこんなところに?邪魔だな・・・。」
と私は思いました。
私が、「これ、誰がここに置いたの?」というと、
きりんが、「きりんが置いたんじゃないよ。」と言います。
ここで、私の中の、
「想像力の欠如」と「多くの刷り込みによる記憶の再生」
が起こったのです。
「きりんが置いたんじゃない=自分が置いたんじゃないから、片付けないよ。」
と言われた気がしたのです。
でも、彼は、「片付けない」とは一言も言っていない。
ただ、「自分がそこに置いたのではないから、なぜそこにあるか知らないよ」と、それだけを言っているのです。
私も、「邪魔だから片付けて欲しい」と伝えなかったし、
そもそも、自分で片付ければそれで済んだのです。
でも、言われた瞬間には、そんなことを考える余裕はなく、
「自分がやったんじゃないから、片付けなくていいってことなの?」
と私は思ったのです。
これ、本当に今までの様々な刷り込みの弊害です。(笑)
・みんなで片付けましょう。
・自分のことでなくても、やってあげるのが親切です。
・人のことも、自分のことのように考えてあげるのが、やさしさです。
まず、自分がどうしたいのか、
この状況はどういったことなのか、
などを感じたり、考えたりせず、そういうもの、と思ってきたのです。
しかし、 その一方で、
自分のことは、自分でやらなくてはと思って来た自分。
《自分のことは、自分で。人に迷惑をかけない。》
という教育が染み付いている!
だから、「自分で置いたのなら自分で片付けてよ!」
と思ってしまっていたわけです。
責任の所在を明らかにしたい→自分の責任でないということを
明らかにしたい。
自分の責任を果たすことで、必要以上に背負わされずに済む。
どれだけ責められることを恐れて来たのか・・・
そんなことまで思い出しました。(^_^;)
そして、一方で、《自分のことだけでなく、人にも親切に》
とか言われてきているので、
「自分のことじゃないからって、やらないっていうことでいいの?」
と思うわけです。頭の中がややこしい。
なんだ、このタブルバインドは。(-_-;)
でも、誰が片付けても、別に問題などない。
できる人がやったらそれで良い。
邪魔だなと思った私が片付ければ良いわけです。
きりんが、私の怒りが静まったころに、超冷静にこう言いました。
「さっきのことだけど、お母さんが、《誰が置いたの?》って聞いたから、きりんじゃないよっていっただけで、片付けたくないとか、そういうことを言ったんじゃないんだよ。もっとちゃんと、お母さんがわかるように説明すればよかったね。ごめんね。」
私が謝らなくてはならないのに、先に謝らせてしまった。
申し訳ない・・・m(_ _)m
「もっとちゃんと、お母さんのわかるように説明すればよかったね」
って・・・(^_^;)
・・・・不出来な大人でご苦労おかけします(-_-;)
些細な朝の出来事で、
様々な刷り込みと思い込みと、自分の想像力の欠如を
ありありと感じました。(^_^;)
とほほです。
こういうことがきっかけで夫婦喧嘩とかもおきるんでしょうな。
男女差(脳の違い)もある上に、
お互いに全く違う環境で何十年も生きて来ているんですから・・・・。
摺り合わせって本当に大事ですね。
そして、こどもたちが日々、見せてくれる様々な出来事、
やりとりの中で、感情が揺さぶられる時、
自分の育ちに刷り込まれている様々な記憶が再生された時こそ、
自分を見つめるチャンスなのだな、と実感しました。
こどもたち、お世話おかけします~(^_^;)
ありがとうm(_ _)m