けいこさんのブログ

ときどき、料理教室。ときどき、お菓子屋さん。ときどき、ハンドケアと食養指導士。まいにち、わたし。

5月20日・今日もまとめない。「学びって・・・・。」

 

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リラ冷えでしょうか。庭のライラックが少しづつ花をつけ始めました。昨日の雨から今朝は綺麗な青い空が雲の切れ間から見えます。この青はどこからくるのだろうと眺めている穏やかな朝です。

 

【理解する過程を知ることは、ワクワクすること。】

学校に行っていたら、小学3年生の息子・きりん。全く学校に興味なしの現在。おそらく、学校の存在自体、殆ど忘れかけているのでは?とさえ思えます。(笑)(本人は、「学校やめたから~」とか言うこともありますが、現在の教育制度上、辞めるのは難しいです。笑)そんな彼ですが、教わっていなくても、教えなくても、文字を獲得したりしているわけですが、冬の終わり頃、ちょっとしたやりとりから、彼の繰り下げ計算について夫と話しているのを耳にしました。夫に買い物を頼み、そのお金を払うよ、というきりんの発言から始まったのですが、「200円渡したら、108円のブラシを買った時に、お釣りはいくらか?」という夫の質問に、「88円」「どうしてそう思ったの?」というやりとりの中で、繰り下げ計算を彼がどのように考えているのかがわかり、それが、とても面白かったのです。学校では、多くの場合、答えを出すことがメインになり、その「過程」は段々と注目されなくなっていく気がします。「どんな過程であろうと、答えがあっていればいい」という方向になりがちではないかなと。そして、その「理解する過程」というのは、本当に人それぞれ違うのだろうと思います。1クラスが30人以上いる環境においてもひとりひとり理解の過程はきっと違うのですが、それをゆっくり聴くには、大人たち、先生たちは忙しすぎると思います。でも、今回、きりんの話を聴いて、単純な?私は、「あぁ、こうやって理解しているのか!」と感銘さえ覚えて(笑)面白くてたまらないと思いました。理解の過程を知ることは、私にとって、物凄く面白いことだったのです。そして、これが、ひとそれぞれ、その子どものタイミングによっても全然違うんだ!と思ったら、ますますワクワクするのです。

 

【学びとは物凄く個人的なもの。】

きりんが、5歳・年中クラスの時、「きりんは、学校にいかないよ。」と言いました。あ、そうなんだ。と聞いていました。就学年齢になったらまた変わるのかもしれないし、どちらでもいいと思いました。ただ、漠然と、もし学校に行かない場合、きりんが学ぶ場が必要になるかもしれない、と思って、フリースクールのことを調べたり、立ち上げた場合に補助がでるのか?など調べたりしました。しかし、一番の大きな問題は、「私自身が、そこに携わるに相応しい自分であるのか」ということ。さらに、人を集めてやる場合、「子どもの学びたいタイミングはそれぞれであり、学びたい事柄はそれぞれであるときに、どのように対応できるのか?」ということでした。ある人は言葉に興味があり、ある人は数字に興味があるかもしれない。どちらも生活に直結しているので、学びを分ける事自体もなんだか違う気がする。教科ごとにわける事自体がなんだか生活から離れた学びになってしまうよなぁ・・・とか。結局、色々考えて、きりんの様子を見ても、学びの場を私が設定する、というのも何が違和感があると思い、今は卒園した幼稚園で受け入れてもらい、フリースクールのように通わせていただいている状況です。

 きりんと夫のやりとりを聞いていて、こんな風に理解の過程は本当に個々で違い、タイミングも違うことを実感すると、学校や学びの場を創ろうとするならば、子どもへの理解を深める努力をし続けることができる大人と子どものタイミングに対応できるそれなりの人数の人員が必要になると思います。そして、子どもに関わるということは、それだけ子どもの将来に少なからず影響を与えるうる存在になるということを常に強く自覚し、それが、喜びにもなり得るし、恐れでもあるとういことを感じ続ける必要があると思うのです。今の私自身は子どもの環境として、自分がそぐわないなぁ・・・思っているので、多くの子どものあつまる場を創ることは難しいと思っています。(それでも、子育てさせてもらっていますが・・・ありがたいことです・・・)いずれにしても、学びとは、物凄く個人的なもの。それを集団にしたとき、どれだけそれに対応できるのか。そのタイミングをどれだけ拾い上げていけるのか。そんなことを思わせてくれた夫ときりんのやりとりでした。

 【子どもは自由自在に学ぶ。大人は美味しいおやつを出すだけとか。】

もっと自分が学びや考えを深めていって、年齢を重ねて行った時、様々な年齢の子どもたちが家になんとな~く集まって、自分のやりたいことをやり、わからないことはお互いに教え合ったり考えて工夫したりする《おばちゃんの家》のようなものが地域にあったら面白いなぁ~とぼんやり思っています。おばちゃんは、余計な口出しせず、美味しいおやつとかおむすびをとかを出してそこにいるだけ。そんな居心地の良い、風通しの良い場所ができたら面白いだろうな、と妄想したりしています。陽だまりの中で、縁側でおやつを食べたりして。昭和な田舎の一軒家のイメージですが。(笑)おばちゃんはたまに喋ったり、頷くだけ。時間がかかり、「おばちゃんの家」を通り越し、「おばあちゃんの家」でもいいので、いつかそんな場が自然発生的にできたらずっと退屈しないなぁ、なんて思っています。そこにおじちゃんやらおじいちゃんも居て、大工仕事したり、畑仕事してたりしても楽しそうだな。妄想は膨らみます。笑

 

『子どもは、自分で学びの場を掴み取ることができる。』

 

 自分で必要なことを、学び獲得して育っていくと、自分が「何がやりたいのか」ということが、段々と明確になっていくのではないかと思っています。それが、いつ、どこで、というのは、それぞれだと思いますが。

そして、学ぶことを楽しいと感じて育つと、きっと自分で学びの場を掴み取る力があるのだと思います。大人としてはその環境をどれだけ用意できるか、という役割を担っているのだろうとも日々思います。子どもの傍にいる大人として、その環境を用意できる引出しをもっと増やしていきたいなと思います。しかし、これがなかなか難しく、いったいどういった環境を整えられるのか?と夫婦間でもよく話し合いのテーマになります。その一方で、子どもは大人が用意しなくても、自分でどんどん開拓していき、自分の進むべき方向へと歩んでいき、自分で選択していく力があるのだとも思います。子どもが選択に迷った時に、できるかぎりの選択肢を伝えたり、やりたいことを最大限サポートする、一緒に考えるくらいの気持ちでもいいのかもしれません。ついつい「なにかしなければ!」という肩に力が入った感じになりがちなので、もっと緩やかにとらえていきたいと思います。

 

こどもたちの未来は、いつだって光に溢れている。

その向かう先への道のりをできるかぎり邪魔しない。

私もワクワクしながら学んで行きたいと思います。

今日も澄んだ青空を眺めながら、気持ちよく過ごしたいと思います。佳き一日になりますように♪