けいこさんのブログ

ときどき、料理教室。ときどき、お菓子屋さん。ときどき、ハンドケアと食養指導士。まいにち、わたし。

5月24日・今日もまとめない。「『もの』とは何か?」

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【『もの』とは何なのか?】

最近、考えていること。『もの』とは何なのか?先日、幼稚園でもフリートークという母や父やスタッフが自由に意見交換する時間に、昨今の玩具を通じて起き得るコミュニケーションの色々について話を聴く機会があった。様々な考え方があるし、どれが正解でも不正解でもない。

これだけの物が溢れている時代は「尋常ではない時代だよね」とスタッフの方の言葉。うん、本当にそうだ。アニメーションも玩具も「人の心を捕らえる」方法が、心理学的側面からも研究され、その上で作られている時代。コミュニケーションツールとして優れているとの話も聞く。「欲しい!と[自分]が思っている」のか、「欲しい!と思わされている」のかさえも、曖昧なのではないかと思うことがある。年齢が低ければ低いほど、その境界線は曖昧になる気がする。

 

我が家には、今の所、そういった玩具がない。子どもは、幼稚園や友達が持っていてその存在は知っている。でも、今の所欲しいと言われたことがない。私や夫も興味がないし、家にテレビが無い、というのもあるのかもしれない。玩具に限らず、こどもに何か買うことがあるとする。私は、ある時、「子どもが欲しい」のではなく、「子どもが喜んでくれることで、自分の気持ちを満たしたい」という上での行為だったと気がついた。でも、こどもたちは、私が物を買い与えなくても、毎日楽しそうだし、それは私自身の問題なのだなぁ、と思ったことがあった。それ以来、「子どもが本当に欲しがっているのか?それとも私が買ってあげたいと思っているのか?」と考え感じる時間を持つようにしている。

 

【コミュニケーションツールとしての玩具】

玩具をもっていることで、仲間に入れてもらえる。遊びのきっかけになることもあるようだ。それも事実の一つなのだと思う。では、もっていないとどうなるの?と考えた。これは、私の個人的な考えで、子どもの性格にもよると思うが、「子どもに限らず、人は、様々はコミュニケーションのとり方が出来る」ということ。私の子ども時代にもテレビゲームが流行っていたが、私の家にはなかった。テレビゲームで遊ぶとなると、話題に入れないなどあったかもしれないが、同じ様にゲームを持たない子との交流が増えて、違う遊びが広がった記憶がある。現代より子どももたくさんいたし、他にも選択肢が多かった時代だからかもしれない。私の性格が「別にその中に入らなくてもいいじゃん。」というタイプだったからかもしれない。今は子どもも少なく、その中に入れないことで、子どもだけでなく、親も不安になるのかもしれない。

 

【「尋常でない量の物が溢れている時代」をどう生きるのか?】

 一歩外にでれば、そこかしこに物が溢れている。「もの」も使い方によって、便利で暮らしやすくなることも多々ある。しかし、「ただあればよい」わけではない気がする。どのように選び、所有し、どのように使うのか。壊れた時はどうするのか。失くした時はどのように対応するのか。日々、どうやって扱うのか。それは玩具でも生活用品でも、なんでも同じだと思う。子どもたちは大人が「もの」をどの様に位置づけて扱っているかを感じていると思う。「もの」を通じて、「一番身近である親の価値観や在り方」を感じていると思う。大袈裟な言い方かもしれないが、どのような「もの」を選択し、どのように扱っていくのかを通じて、「もの」は自分の生き方を体現化してると思う。

 【きりんの帽子。】

きりんが3歳の時から被っていた帽子がある。冴え渡る青空の日も、雨の日も、来る日も来る日もこの帽子を被り、外で虫採りに明け暮れる。そんな彼とずっと一緒だった帽子。穴があくと繕い繕い使う。その帽子がついに、頭の天辺部分が薄くなり生地が裂けてしまった。帽子が裂けるのか!と私も驚きつつ、しみじみと眺めた。あまりにも汚れ、穴が空き、どうにもならなくって、新しいものを購入しようか、と声をかけても首を縦に振らない彼。「この帽子が好きだから、新しいものはいらない。」と言い続けていた。同じデザインの物ならいいだろうか、と探してみたが見つからない。でも、「同じ物」など存在しないのだ。彼が6年間の時を一緒に過ごした帽子はこれだけなのだ、とその時思った。彼にとって、ボロボロでも、この帽子の代わりはないのだ、と。出来る限り補修し、使ってきたが、もうどうにもならないところまで来た。そして、新たな帽子を一緒に買いに行った。新しい帽子も快適ではあるようだが、「新しい」ことだけを喜んでいるわけではなく、「この帽子もず~っと大切に使うんだ♪」と言っている。彼の成長と共に姿を変えてきた帽子を、玄関に飾った。

 

「もの」について考えるとき、私はこの帽子をまた眺め、手に取っていこうと思う。

・・・『もの』ってなんだろう?

きっとこれからも感じ、考えていくことなのだと思う。