子どもだったはずの大人たち。~怒りは負の感情か?~
6月1日、りらら6歳になりました。いつも彼の育ちを見守ってくれる皆様、ありがとうございます♪
初めて話した言葉は「じゆ~(自由)!」の彼。楽しいこと、自由であることを大事にしているようです。普段は楽しく愉快に面白いことが大好きですが、一度怒りスイッチが入ると物凄い爆発力。(^_^;)
昨日、デュプロブロックで遊んでいたりらら、基礎板の下に車をつけたかったのに、そういう作りになっていない!と怒りはじめました。
「こうして遊びたいのに、なんでそういう風に出来ないようになってるの?コレ作った人、そういう風に子どもが遊ぶかもって考えなかったのかね?!(# ゚Д゚)」
気持ちはわかります。笑 そしてまだ怒りは続きます。
「作った人だって子どもだったはずなのに、なんで考えないかね?!」
そうですよね。笑 忘れちゃってるんですよ、大人は。自分が子ども時代に理不尽な思いをしてきたことも。本当に申し訳ありません。笑
こうして言葉にして表すこともあれば、言葉にならない怒りもある。
「怒り」も表現の方法のひとつ。
大人はそれを言葉にさせようとしたりしますが、もし、そこで言葉にできたとしても、本人が本当に感じているであろうこととはズレていたり、大人の納得したい答えを導き出しているに過ぎないことも多々あると思います。「怒りたい」のであれば、とことん怒るしかないこともある。それが必要な時もあると思います。でも、それを言葉にして表現させ、大人が納得したい要素として分析する必要もない。
怒ってる彼を「あぁ、怒ってるんだねぇ。嫌なんだねぇ。激しいねぇ・・・どうにかならんかねぇ・・・いや、どうにもならないから怒ってるんだよねぇ。うん。でも、そんなに怒らなくってもいいんじゃないのかねぇ・・・(^_^;)」とか思いながら見守るしかないわけです。笑
子どもが怒っていると親(大人)の心がザワザワするのは、自分が責められている気持ちになるからだと思います。子どもは、別に親に対して怒っているわけでも、責めているわけでもない。そこは分離して考えていいところなのですが、それくらい親、特に母と子って近い、ってことなんでしょうね。でも、全く別の人間、です。わかりたいとは思って努力はしても、決して同じようにはわかりえないと思います。
そして、怒りや悲しみは、【負の感情】か、というとそうではないと思います。寂しいとかそういったことも。それをふまえた、まるっと含めた「喜び」であると思うのです。
「怒り」も「悲しみ」も「寂しさ」も一見、負の感情に見えるのですが、私は、「通過点」だと思います。夫にこの話をしたら、「なるほど、【ダメな状態】とは、【そうであってはならない状態】ではないってことだね。」と。
私達は常に「良い状態」であることを「そうあるべき状態」に置き換えがちだと認識しておいた方がいいのだと思います。
だから大人は子どもや人が怒っていたり、泣いていたり、グズグズしたり、一見不快そうに見える状態を【そうであってはならない状態だ】と思っている。
でも、思うのです。
怒りも悲しみも、寂しさも、喜びも本来はなんら変わりないものなのかもしれないと。その根源はきっと同じでなないのだろうか、と。
怒りは負の感情なのか?と考えると、【通過点】だと思います。
不快から快への通過点。
彼の言葉にならない姿は私に「言葉にすることが全てではない」「物事はまとめる必要はないし、そもそもまとまるものではない」といつも感じさせてくれます。
人は成長の過程の中で、少しづつ「不快」と「快」の振り幅が少なくなって行くことを経験の中から獲得していくのだと思います。自分が生きやすい、本当に使うべきところにエネルギーを使うやり方を周りとの関わりや経験から少しづつ、自然と身に着けていくのだと思います。
彼がこれからも自分自身が大好きであり、自分の好きなことを十分面白く味わいながらやって行くことを邪魔しないようにしたいです。
地顔が笑顔。神様からの素敵な贈り物。
我が家のポジティブな在り方の中心である彼に感謝です♪
母が「お母さんが怒ると、りららに気を遣わせてしまうよね。ごめんね。」というと、
いつもの笑顔で、「いいんだよ~いいんだよ~(*^^*)」と達観したお祖父さんのように言ってくれるりらら。(^_^;)も、申し訳ありません・・・。母、もっと懐を深くしたいです。(^_^;)
いつもありがとう!!!!!