けいこさんのブログ

ときどき、料理教室。ときどき、お菓子屋さん。ときどき、ハンドケアと食養指導士。まいにち、わたし。

5月24日・今日もまとめない。「『もの』とは何か?」

f:id:keiko-san:20180430131209j:plain

【『もの』とは何なのか?】

最近、考えていること。『もの』とは何なのか?先日、幼稚園でもフリートークという母や父やスタッフが自由に意見交換する時間に、昨今の玩具を通じて起き得るコミュニケーションの色々について話を聴く機会があった。様々な考え方があるし、どれが正解でも不正解でもない。

これだけの物が溢れている時代は「尋常ではない時代だよね」とスタッフの方の言葉。うん、本当にそうだ。アニメーションも玩具も「人の心を捕らえる」方法が、心理学的側面からも研究され、その上で作られている時代。コミュニケーションツールとして優れているとの話も聞く。「欲しい!と[自分]が思っている」のか、「欲しい!と思わされている」のかさえも、曖昧なのではないかと思うことがある。年齢が低ければ低いほど、その境界線は曖昧になる気がする。

 

我が家には、今の所、そういった玩具がない。子どもは、幼稚園や友達が持っていてその存在は知っている。でも、今の所欲しいと言われたことがない。私や夫も興味がないし、家にテレビが無い、というのもあるのかもしれない。玩具に限らず、こどもに何か買うことがあるとする。私は、ある時、「子どもが欲しい」のではなく、「子どもが喜んでくれることで、自分の気持ちを満たしたい」という上での行為だったと気がついた。でも、こどもたちは、私が物を買い与えなくても、毎日楽しそうだし、それは私自身の問題なのだなぁ、と思ったことがあった。それ以来、「子どもが本当に欲しがっているのか?それとも私が買ってあげたいと思っているのか?」と考え感じる時間を持つようにしている。

 

【コミュニケーションツールとしての玩具】

玩具をもっていることで、仲間に入れてもらえる。遊びのきっかけになることもあるようだ。それも事実の一つなのだと思う。では、もっていないとどうなるの?と考えた。これは、私の個人的な考えで、子どもの性格にもよると思うが、「子どもに限らず、人は、様々はコミュニケーションのとり方が出来る」ということ。私の子ども時代にもテレビゲームが流行っていたが、私の家にはなかった。テレビゲームで遊ぶとなると、話題に入れないなどあったかもしれないが、同じ様にゲームを持たない子との交流が増えて、違う遊びが広がった記憶がある。現代より子どももたくさんいたし、他にも選択肢が多かった時代だからかもしれない。私の性格が「別にその中に入らなくてもいいじゃん。」というタイプだったからかもしれない。今は子どもも少なく、その中に入れないことで、子どもだけでなく、親も不安になるのかもしれない。

 

【「尋常でない量の物が溢れている時代」をどう生きるのか?】

 一歩外にでれば、そこかしこに物が溢れている。「もの」も使い方によって、便利で暮らしやすくなることも多々ある。しかし、「ただあればよい」わけではない気がする。どのように選び、所有し、どのように使うのか。壊れた時はどうするのか。失くした時はどのように対応するのか。日々、どうやって扱うのか。それは玩具でも生活用品でも、なんでも同じだと思う。子どもたちは大人が「もの」をどの様に位置づけて扱っているかを感じていると思う。「もの」を通じて、「一番身近である親の価値観や在り方」を感じていると思う。大袈裟な言い方かもしれないが、どのような「もの」を選択し、どのように扱っていくのかを通じて、「もの」は自分の生き方を体現化してると思う。

 【きりんの帽子。】

きりんが3歳の時から被っていた帽子がある。冴え渡る青空の日も、雨の日も、来る日も来る日もこの帽子を被り、外で虫採りに明け暮れる。そんな彼とずっと一緒だった帽子。穴があくと繕い繕い使う。その帽子がついに、頭の天辺部分が薄くなり生地が裂けてしまった。帽子が裂けるのか!と私も驚きつつ、しみじみと眺めた。あまりにも汚れ、穴が空き、どうにもならなくって、新しいものを購入しようか、と声をかけても首を縦に振らない彼。「この帽子が好きだから、新しいものはいらない。」と言い続けていた。同じデザインの物ならいいだろうか、と探してみたが見つからない。でも、「同じ物」など存在しないのだ。彼が6年間の時を一緒に過ごした帽子はこれだけなのだ、とその時思った。彼にとって、ボロボロでも、この帽子の代わりはないのだ、と。出来る限り補修し、使ってきたが、もうどうにもならないところまで来た。そして、新たな帽子を一緒に買いに行った。新しい帽子も快適ではあるようだが、「新しい」ことだけを喜んでいるわけではなく、「この帽子もず~っと大切に使うんだ♪」と言っている。彼の成長と共に姿を変えてきた帽子を、玄関に飾った。

 

「もの」について考えるとき、私はこの帽子をまた眺め、手に取っていこうと思う。

・・・『もの』ってなんだろう?

きっとこれからも感じ、考えていくことなのだと思う。

 

 

5月20日・今日もまとめない。「学びって・・・・。」

 

f:id:keiko-san:20180520091231j:plain

リラ冷えでしょうか。庭のライラックが少しづつ花をつけ始めました。昨日の雨から今朝は綺麗な青い空が雲の切れ間から見えます。この青はどこからくるのだろうと眺めている穏やかな朝です。

 

【理解する過程を知ることは、ワクワクすること。】

学校に行っていたら、小学3年生の息子・きりん。全く学校に興味なしの現在。おそらく、学校の存在自体、殆ど忘れかけているのでは?とさえ思えます。(笑)(本人は、「学校やめたから~」とか言うこともありますが、現在の教育制度上、辞めるのは難しいです。笑)そんな彼ですが、教わっていなくても、教えなくても、文字を獲得したりしているわけですが、冬の終わり頃、ちょっとしたやりとりから、彼の繰り下げ計算について夫と話しているのを耳にしました。夫に買い物を頼み、そのお金を払うよ、というきりんの発言から始まったのですが、「200円渡したら、108円のブラシを買った時に、お釣りはいくらか?」という夫の質問に、「88円」「どうしてそう思ったの?」というやりとりの中で、繰り下げ計算を彼がどのように考えているのかがわかり、それが、とても面白かったのです。学校では、多くの場合、答えを出すことがメインになり、その「過程」は段々と注目されなくなっていく気がします。「どんな過程であろうと、答えがあっていればいい」という方向になりがちではないかなと。そして、その「理解する過程」というのは、本当に人それぞれ違うのだろうと思います。1クラスが30人以上いる環境においてもひとりひとり理解の過程はきっと違うのですが、それをゆっくり聴くには、大人たち、先生たちは忙しすぎると思います。でも、今回、きりんの話を聴いて、単純な?私は、「あぁ、こうやって理解しているのか!」と感銘さえ覚えて(笑)面白くてたまらないと思いました。理解の過程を知ることは、私にとって、物凄く面白いことだったのです。そして、これが、ひとそれぞれ、その子どものタイミングによっても全然違うんだ!と思ったら、ますますワクワクするのです。

 

【学びとは物凄く個人的なもの。】

きりんが、5歳・年中クラスの時、「きりんは、学校にいかないよ。」と言いました。あ、そうなんだ。と聞いていました。就学年齢になったらまた変わるのかもしれないし、どちらでもいいと思いました。ただ、漠然と、もし学校に行かない場合、きりんが学ぶ場が必要になるかもしれない、と思って、フリースクールのことを調べたり、立ち上げた場合に補助がでるのか?など調べたりしました。しかし、一番の大きな問題は、「私自身が、そこに携わるに相応しい自分であるのか」ということ。さらに、人を集めてやる場合、「子どもの学びたいタイミングはそれぞれであり、学びたい事柄はそれぞれであるときに、どのように対応できるのか?」ということでした。ある人は言葉に興味があり、ある人は数字に興味があるかもしれない。どちらも生活に直結しているので、学びを分ける事自体もなんだか違う気がする。教科ごとにわける事自体がなんだか生活から離れた学びになってしまうよなぁ・・・とか。結局、色々考えて、きりんの様子を見ても、学びの場を私が設定する、というのも何が違和感があると思い、今は卒園した幼稚園で受け入れてもらい、フリースクールのように通わせていただいている状況です。

 きりんと夫のやりとりを聞いていて、こんな風に理解の過程は本当に個々で違い、タイミングも違うことを実感すると、学校や学びの場を創ろうとするならば、子どもへの理解を深める努力をし続けることができる大人と子どものタイミングに対応できるそれなりの人数の人員が必要になると思います。そして、子どもに関わるということは、それだけ子どもの将来に少なからず影響を与えるうる存在になるということを常に強く自覚し、それが、喜びにもなり得るし、恐れでもあるとういことを感じ続ける必要があると思うのです。今の私自身は子どもの環境として、自分がそぐわないなぁ・・・思っているので、多くの子どものあつまる場を創ることは難しいと思っています。(それでも、子育てさせてもらっていますが・・・ありがたいことです・・・)いずれにしても、学びとは、物凄く個人的なもの。それを集団にしたとき、どれだけそれに対応できるのか。そのタイミングをどれだけ拾い上げていけるのか。そんなことを思わせてくれた夫ときりんのやりとりでした。

 【子どもは自由自在に学ぶ。大人は美味しいおやつを出すだけとか。】

もっと自分が学びや考えを深めていって、年齢を重ねて行った時、様々な年齢の子どもたちが家になんとな~く集まって、自分のやりたいことをやり、わからないことはお互いに教え合ったり考えて工夫したりする《おばちゃんの家》のようなものが地域にあったら面白いなぁ~とぼんやり思っています。おばちゃんは、余計な口出しせず、美味しいおやつとかおむすびをとかを出してそこにいるだけ。そんな居心地の良い、風通しの良い場所ができたら面白いだろうな、と妄想したりしています。陽だまりの中で、縁側でおやつを食べたりして。昭和な田舎の一軒家のイメージですが。(笑)おばちゃんはたまに喋ったり、頷くだけ。時間がかかり、「おばちゃんの家」を通り越し、「おばあちゃんの家」でもいいので、いつかそんな場が自然発生的にできたらずっと退屈しないなぁ、なんて思っています。そこにおじちゃんやらおじいちゃんも居て、大工仕事したり、畑仕事してたりしても楽しそうだな。妄想は膨らみます。笑

 

『子どもは、自分で学びの場を掴み取ることができる。』

 

 自分で必要なことを、学び獲得して育っていくと、自分が「何がやりたいのか」ということが、段々と明確になっていくのではないかと思っています。それが、いつ、どこで、というのは、それぞれだと思いますが。

そして、学ぶことを楽しいと感じて育つと、きっと自分で学びの場を掴み取る力があるのだと思います。大人としてはその環境をどれだけ用意できるか、という役割を担っているのだろうとも日々思います。子どもの傍にいる大人として、その環境を用意できる引出しをもっと増やしていきたいなと思います。しかし、これがなかなか難しく、いったいどういった環境を整えられるのか?と夫婦間でもよく話し合いのテーマになります。その一方で、子どもは大人が用意しなくても、自分でどんどん開拓していき、自分の進むべき方向へと歩んでいき、自分で選択していく力があるのだとも思います。子どもが選択に迷った時に、できるかぎりの選択肢を伝えたり、やりたいことを最大限サポートする、一緒に考えるくらいの気持ちでもいいのかもしれません。ついつい「なにかしなければ!」という肩に力が入った感じになりがちなので、もっと緩やかにとらえていきたいと思います。

 

こどもたちの未来は、いつだって光に溢れている。

その向かう先への道のりをできるかぎり邪魔しない。

私もワクワクしながら学んで行きたいと思います。

今日も澄んだ青空を眺めながら、気持ちよく過ごしたいと思います。佳き一日になりますように♪

 

 

5月19日・今日もまとめない。「春は徒然、我が家は思春期花盛り。」

5月も半ばを過ぎました。新学期が始まり怒涛のようでした。日々濃いです。ブログもPC開いて書いては、子どもたちに呼ばれて、閉じ、そのままになり、また開いては呼ばれて・・・以下同文。(笑)そんな毎日ですが、飽きることなく、盛りだくさんです。今日は春の冷たい雨。ちょっとホッと一息つくこの感じが心地よいです。最近の我が家の庭は、水仙や林檎の花が咲いています。家の中では、第一子・きりん(9歳)に加え、第二子・りらら(もうすぐ5歳)も思春期に突入しております。(^_^;)

 【次男・りらら思春期花盛り。】

次男・りららは年中組になり、ますます思春期花盛り・満開の気配。(-_-)

どんなことでも、注意されると気に入らない、どんな注意の仕方をしても気に入らない。ちょっと注意しても大声で怒ったりする。気に入らないとゴミ箱を投げる、ドアを蹴る・・・・。先日は、炊きたてご飯の卵丼が、本人が思っていたより熱かったらしく、「熱い!」と皿を払い除けました。(# ゚Д゚)なに~!!!!!!!!昭和の封建親父か!?と思いつつ、いつもなら、「食べなくていいよ!」となるのですが、少しパターンを変えてみよう、と思い、「そんなに熱かった?気がつかなくてごめんね~」と冷静に言ってみました。心の中ではワナワナ(# ゚Д゚)していましたが。笑

しか~し!どうしても注意しなくてはならない時がある。危険なことは勿論、親である私たちの姿から、「こんなことは不快だと思う」「これはやっちゃダメでしょ」という線引を日々の生活の中で伝えたり、感じることも大事だと思っているからです。基本的には、「ここまでやったらダメだろう」「危ないだろう」ということは、既にわかっているし、身体でも感じていると思います。それでも、「やってみたい」「試してみたい」という場合もあると思います。

 【言葉にならない機微がある。】

どんな風に伝えたら、お互いに嫌な気持ちにならないのだろう?と私も日々考える。第一子・第二子・第三子(これからね)で、それぞれ性格も違うわけで、同じ伝え方では伝わり方が違う。親の脳内変換が求められているのです。しかも急務。(^_^;)

 

第一子・きりんはどちらかというと身体でぶつかってくるタイプではありません。言葉で表現する傾向があります。故に口達者で私も敵わなくなってきていますが・・・(^_^;)しかし、第二子・りららは言葉で表現しきれない時に、身体で表現してくることが多くあります。本気で私を叩いたり蹴ったりすることもあります。言いたいけど現しきれないもどかしさ、を彼から感じます。でも、それも大事な表現だと思います。全てが言葉に置き換わるわけではない。言葉にしないだけで、感じている。ある時、泣いていた彼に、「どうしたの・・・?」と聴いたら、「・・・言えない。」と言ったことがありました。私はハッとしました。「言えない」ことがある。言いたくないことがある、言葉にしない感情や、言葉にするには微細でしきれない事柄が、毎日毎日、瞬間瞬間起きていて、それを感じている。

 

言葉にした瞬間に、それは全く違ったものになってしまう。

言葉は便利なツールであるけれど、それが全てではない。

同じ言葉を使っても、使う人によってその感じ方も意味合いも微妙に違う。

言葉の持つ「限界」と「危うさ」がある。

 

【それぞれの成長を感じる機会。】

そんなことを思って試行錯誤していた矢先、色々あって、私とぶつかり、りららの感情大爆発が続き、私もついに爆発しました。 

「どんな伝えかたをしても、気にいらないって怒るし、でもどうしてもやってはいけないこともある!どうしていいかわからない!もう疲れた!!!」と子どもたちの前でわんわん泣きました。まぁ、様々な日々の疲れも溜まっていたこともあったと思います。その日は夫が早めに帰宅してくれいて、その現場を見ていたので、りららを誘ってお風呂に入ってくれました。

 

私がメソメソして、「・・・もうどうしていいかわかんない。」と呟いたら、きりんが、「お母さん、きりんもそうだったよ。小さい時は、注意されると自分が責められてる気持ちになっちゃうんだよ。でも、大きくなると、そうじゃないってわかるから、受け流せるようになるからさ。今は、りららも自分を出している時期だから、見ていてあげたらいいよ。」母、号泣。

もう、どっちがお母さんかわからない。(笑)その夜、布団に入ってきたきりんが、「お母さん、今日はりららのことお疲れ様ね。でも、もう少し大きくなったらわかるようになるからさ、大丈夫だよ。よく眠って休んでね。」母、布団の中でまた号泣。笑 

りららの思春期花盛りは、私の脳内変換の必要性と、私が言葉にいかに依存しているかとういう事への気づきの機会でありました。そしてまた、りららの成長を感じる機会でもあり、それがまたきりんの成長をも感じさせてくれているのです。あぁ、こうしてみんな大きくなっていくんだ。母も置いていかれないように成長したいです・・・。なかなか疲れますが、母、日々ガチンコです。スルーできない、ガチンコ体質なのか?!と最近思います・・・笑

 

私が爆発している間、きりんが、末娘を抱っこして違う部屋にそっと連れていきました。そして、ずっとあやして遊んでいるのが視界に入りました。きっと意識してのことではないと思いますが、妹がその場に居ないほうがいいと感じたのだと思います。そんなさりげない配慮に驚きます。

 

子どもたちは、言葉にしない、ならない部分で大人が思っている以上に、多くのことを感じ取っている。それを言葉にしないからといって、わかっていないわけではない、感じていないわけではない。どこまで、思いを馳せ、寄り添えるか。まだまだ修行の足りない自分を痛いほど感じています。

 

言葉の限界を感じながらも、今日もこうしてまとまらない言葉を綴っていく。今日も素敵な素敵な一日になりますように。 

f:id:keiko-san:20180430085057j:plain

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3月23日・今日もまとめない。「しあわせまゆげと、順番を巡る小さなドラマ。」

f:id:keiko-san:20180323082551j:plain

【しあわせまゆげ。】

娘の眉毛。濃い。くっきりしている。私は、娘の眉毛をみると、何故か安堵感に包まれる。寝起きなど、寝ている顔にくっきりと引かれているこのラインを見るのが、なんともしあわせなのである。勝手に、「しあわせまゆげ」と呼んでいる。

先日、お世話になっている歯科で、夫が待合室で娘を抱っこしながら遊んでいてくれた。そこへ衛生士さんが来て、「いい眉毛ですねぇ。どしっりしてて、安心、安定感がある。私なんて毎日描くの大変なのに~羨ましい!」と言われたそうです。そうなんです!!!!とその話を聴いて思いました。この眉毛を見ていると、「全て問題なし!」「大丈夫!」と思えてくる。まさに魔法の眉毛。(笑)私だけじゃなかったんだ!そう感じるのは!となんだか嬉しい。夜中の授乳もオムツ替えも、この眉毛を眺めてはほっこりしています。大丈夫、大丈夫、全て問題なし。そう言われてる気がするのです。

 

【順番を巡る小さなドラマ】

「順番」ということが関わるといつだって、小さなドラマがある。

先日も幼稚園でゲームの時間があったときのこと。こどもたちは、かけっこをする為に、順番に並び始める。まぁ、大体は、なんとなく並んでいるのですが、急に横から入ってくる子もいる。で、ここで、「横入りダメなんだよ~」という子もいれば、横入りされている事に気がついてない子もいる。そして、気がついているけど、気にしないでその状況をそのまま受け入れてる子もいる。また、相手によって、入ってもまぁいいか的に見逃してみたり、「入らないで!」となったりもする。そして、横入りする方も色々だ。「この辺になら入れてもらえそう?」ってあたりを動物的勘?を使ってサッと入ったり、その選択を誤って、「ダメだよ!」と怒られたり。それはそれは、様々で面白い。横入りされて、嫌だったけど直接言えなくて傍にいた大人(その時は私に)「〇〇が並ばないよ~!」と訴えてくることもある。私は、「うん、そうだねぇ。」とかい言って、様子をみて、さらりと、「△△が並んでたよ、」と〇〇に言うこともあるし、言わないこともある。

何にしても、色々な状況がある。なので、できるだけ、介入しないことにしている。

りららも横入りされ、気がついてないこともある。いや、気がついているけど、敢えて言わない事が多い。それを私が、「入っちゃダメなんだよ!後ろに並んで!」というのは、なにか違う気がする。本人が良しとしていて、嫌でないのであれば、それは子ども本人にとっては、問題ではないのだと思うから。大人がそこに焦点を当ててしまうと、それが「問題」になり、「ルール」になってしまうこともある気がする。勿論、注意したっていいし、そこは大事だと思う人が居てもいい。私は、こどもたちなりに考え感じたりして、入れたり入れなかったり、気にしたり気にしなかったり、大人に訴えてみたりのそれぞれが面白いといつも思う。横入りされて嫌なら自分で嫌って言えるのも大事だと思うし、まぁいいかって思えるのもいいと思う。入れてもらって、自分も寛容になったり、ならなかったり。(笑)

人との距離感を肌で感じるこどもたち。何がいいたいかというと、大人の物差しでは測れないということだろうか。「順番は守らないといけない」というのは、本当にそうなのかな、といつも考える。様々な状況があることを肌で感じて育つと、「順番は守らなくてはいけない」というよりも、「まぁ、基本的には、守ったほうがいい場合も多いけど、そういう時ばっかりでもないし、色々な状況があるよね。」くらいな感じになる気がする。そう思いながら、今日も子どもたちの並ぶ様子を見ながら、其処此処で起きる小さなドラマに目を向けている。毎日、飽きないなぁ。テレビドラマより遥かに面白いと思う。ホントに。

 

f:id:keiko-san:20180323082618j:plain



3月13日・今日もまとめない。「ガトーショコラとダメ母の自己弁護。」

f:id:keiko-san:20180313074024j:plain

【ガトーショコラが食べたい。】
自分が、どうしてもどうしても食べたくて、自然栽培玄米粉米粉を使って、ガトーショコラを焼きました。今までは菜種油を使っていたのですが、ガトーショコラに菜種油を使うと、どうしても匂いが気になる。そこで、今回はココナツオイルを使ってみました。油の量はレシピの半分(単に足りなかったのだけど・・・)それでも、十分、というか多いくらいに感じられたので、次回はさらに調整です。甘味にはメープルシロップと米飴を使いますが、こちらも、玄米粉が物凄く甘いので、もっと減らして良さそう。しかし、娘が機嫌良く、抱っこをリクエストしない限られた時間で作るため、慌ててオーブンのトレイを入れる場所を誤り、結果、オーブンの中でガトーショコラが膨らみ、天井にガッツリ張り付くという惨事に見舞われました・・・。ふぅ・・・。うっかり母さん、今日も健在。
 
【ダメ母の自己弁護。】
このようなダメっぷりは序の口で、おそらく我が家の子どもたちは、「お母さん、またやったの?」「あぁ・・・仕方ないね・・・」と何処か思っている節がある。しかし、滅多に口にはしない。口にしたら、地雷を踏み、母の怒りのとばっちりを受けることを知っているからである。(笑)でも、私が、「きゃー!」「わ~!!!!!」と台所で叫ぶと、「大丈夫?レスキュー!!!!」と飛んできて惨事を確認している。そして、黙ってダメっぷりを観察している。(笑)でも、これでいいのだ。母は完璧な存在などではない。親が完璧だと、子どもたちも苦しいし、将来のパートナーにも知らないうちに完璧を求め、お互い苦しむ。なので、「お母さん、仕方ないな~またか~」くらいで丁度良いかと。自己弁護。でも、コレ、ホント。(笑)しかし、義母は比較的完璧な母だったようだが、夫が私を選んだのが凄い。物珍しさと面白さが勝ったのだろうか。わはは。
 
【何でもお見通しされてる母。】
「お母さんは何でもお見通しよ~!」とか言ってみたいが、我が家では、子どもたちが、「何でもお見通し」である。先日も、ちょっとイライラして、きりんに強い口調で話し、反省した私は、「さっきは怒ってごめんね。」と素直に謝ってみた。すると、「あ~、大丈夫。怒ってたんじゃなくて、イライラしてそういう言い方しちゃっただけでしょ。(^^)」と言われた・・・・。ハイ、その通りです・・・。母さん、あなたたちに、ついて行きます。置いていかれないように精進しますです。
 
 
兄たちに追随するであろう・・・いや、もっと強力になるであろう・・・末娘。腕立てしてトレーニング中。これ以上鍛えなくても、もう、十分エネルギッシュですけど・・・。

f:id:keiko-san:20180313074422j:plain

 
 
 

3月10日・今日もまとめない。「ツルツル道路の冒険と留守番。」

【 きりんの留守番】
きりんは「なんとなく今日は、行っても楽しめない気がするから、家に居ようかな、留守番してる」と。おととい、友達の家にお泊りさせてもらい、楽しいからこそ、疲れもしたのだろう。いつもなら「きりんが休むならりららも~休む!」というパターンだが、聞いてみると、「りららは幼稚園に行く。」と言う。ほほぉ。きりんは一人での留守番(だいたい5時間位になるか?)は初めてである。「色々ゆっくりやりたいことがあるから、楽しみだ」と私とりららと娘を送り出してくれた。「いいねぇ、ひとり時間!」といったら、「うん、いいでしょ♪」と言っていた。(笑)念の為、私の携帯を置いていき、なにかあったら幼稚園か父に電話するように、と電話のかけ方を教え、家をでた。
 
お昼前、幼稚園で園長に呼ばれ、「きりんから、電話だよ。お母さ呼んでもらえるかな?だって。(笑)」なにかあったか?と思いきや、用事はPCにハードディスクが繋がってないので、どうやって繋げるの?と。電話でPCのことを説明するのは、私には困難である・・・(-_-)「お父さんに電話で聞いてたらわかるかな・・・」「あ、そうしてみる!」と電話を切った。夫よ、丸投げしてごめん。(笑)
 
幼稚園バスで2時半くらいに帰宅すると、玄関で上機嫌のきりんが出迎えてくれた。何やらいい香りが台所からしている。「おかえり!シチューと炒飯つくっておいたよ!あとね、昼寝したり、DVDみたりして、のんびりしてた。」ハードディスクも夫に電話してちゃんと繋げたとのこと。へ~。
夫に後から、「きりんが電話をかけてきたとき、【仕事中に電話かけてごめんね】っていってたよ。」と聞いた。幼稚園の園長には、「お母さん呼んできてもらえるかな?」だったけどねぇ。・・・(笑)
 
きりんの作ってくれた重ね煮のシチューと炒飯はとても美味しかった。炒飯の作り方を教えたことはなく、自分で考えて作ったとのこと。わかめを入れようと思ったらなくて、鰹節を入れたんだよ、と。わかめ炒飯・・・ってどんな感じだろう。(笑)しかし、疲れて帰宅して、夕飯が出来ている!このしあわせなこと!!!出迎えてくれた時の彼の顔を見て、「あぁ。自分でリセットし終わったんだな。」と感じた。自分の心と身体の声を聴いて、今日をどう過ごしたいかを決めることができるのだ。彼の作ったシチューと炒飯は、春の味がした。
 
【ツルツル道路の冒険】
今日の道路は凍っているところに雨が降りツルツル。恐恐ゆるゆると幼稚園バスの来るバス停までりららと娘と歩く。滑って言ったほうが、絶対早い。雨も降っている。こんな日は家にいるに限る。しかし、りららの今日の「行く」は、なんとなく、いつもの「行く」とは違う気がした。何が、と言われるとわからないが、何か違う。 りららと傘をさしつつ、手をつなぎ、娘をスリングに入れリュックを背負い、今日に限って手提げには5キロの米粉。(というか、何で今日もってきちゃったんだ?自分。)
 
幼稚園では、傘をさして雨が傘に当たるのを味わってから園舎の中に入る。静かな場所を選んで、「コレ読んで~!」と絵本を持ってくる。「ジプシーの暮らし」という本。セレクトがいつも渋い。世界の民話的なものなどが好きらしく、字は読めないのに、そういった絵本を選んでくる。どうやってそのあたりがわかるのかわからないが、面白い。そして、本が好きで読んで欲しい、というのは勿論あるのだろうが、「コレ読んで」の奥にある気持ちにもいつも想いを馳せる。単純に読んで欲しいとき、本を読んでもらうことは単なるツールの一つでしかないとき・・・多分色々だと思う。私は、子どもとわいわい楽しいのも好きだけど、子どもと静かに過ごすこんな時間もたまらなく好きだ。一人にならなくても、心を静かにすることはできる。お互いに心が静かになっているのが感じられる。「絵本」というツールを通じて様々なことを共有させてもらっているのだ。
 園バスで帰りのバス停で降ろしてもらい、坂道を登っていく。朝よりはツルツルはマシになっていた。滑りにくい場所を選んで慎重に歩く。りららは立ち止まり立ち止まり歩く。雨樋から落ちる雫の連鎖の下で傘を広げて味わっている。氷の中に埋まっている枝を発見して「救出!」と掘り出す。それに夢中になり、手袋が片方、行方不明になる。来た道をまたまた戻る。結構戻る。この繰り返し。
繰り返し、繰り返し。でも、同じではない。ひとつとして。毎日は冒険だ。
 
それぞれの選択をする子どもたち。こうして、どんどんそれぞれ前へ進んでいくんだと思う。
私と夫は、あたふた、あわあわしながら、こどもたちの後をついて行こうと思う。(笑)こどもたちは、時々、振り返って、あたふたしている私たちを見て笑い、どんどん前へ進んで行くのだと思う。そんな感じは私たちにとってたまらない幸福だと思う。
 
↓お友達が撮ってくれました。冬の中にはもう既に、春が散りばめられています。

f:id:keiko-san:20180310093347j:plain



2月20日・今日もまとめない。「なんでも、かんでも、はっきりさせなくても、いいよね。」

f:id:keiko-san:20180220145156j:plain

 
 
「明日、幼稚園休む~」と、りらら。
「何で~?」
「好きなことしたいから~」
「幼稚園でも好きなことできるでしょ~?」
「家でやりたい好きなことは、幼稚園行ったらできないでしょ~。」
 
なるほどね。そりゃそうだ。
やりたいこと、やりたくないこと、
やること、やらないこと、
どっちも同じくらい大切だと思う。
動くことと休むことも同様に。
 
きりんも珍しく、この数日お休みモードで家に居たいと言う。風邪症状も殆ど見られないけど、そんな気分なのでしょう。大人からみたら、明確な理由がないように見えても、子どもの中では、言葉にはならない、明確な何かがあるのだと思います。言葉を超えて。
 
ゆっくりしたいときは、ゆっくりしたらいい。休むことはとても大事。
自分で自分の身体と心の奥から聴こえてくる声を無視しないこと。こどもたちからいつも教わっている気がします。大人は、というか、私は、つい無理したり動いてしまうことを、長年やってきて、それが癖になっていたりします。でも、そうすることは、心からのものではなく、「無理している」ので、様々なところに歪みが生じます。夫婦関係、家族関係だったり、自分自身の身体だったり。でも、やらないことは、いけないような気がして、一生懸命に「やらない理由」という「言い訳」を探したりする。
 
なんとなく、嫌。なんとなく、好き。なんとなくやりたい、なんとなくやりたくない。
だってやりたいんだもん!だってやりたくないんだもん!理由がはっきりしなくても、それも、いいじゃない。今の自分の在り方を受け入れていこう。こどもたちが、これからどんどん大きくなっても、自分を大切にできるなら、それが何よりしあわせに繋がる事だと思います。
 
 
りらら、水彩絵の具で「富士山」を描いたそうです。
神奈川に住んで居た時は、海岸からよく富士山を眺めていました。りららは北海道産まれなので、記憶に残る年齢で、実物を観たことはおそらくないはず。それでも、富士山。なんだか、面白いな。