子どもだったはずの大人たち。~怒りは負の感情か?~
6月1日、りらら6歳になりました。いつも彼の育ちを見守ってくれる皆様、ありがとうございます♪
初めて話した言葉は「じゆ~(自由)!」の彼。楽しいこと、自由であることを大事にしているようです。普段は楽しく愉快に面白いことが大好きですが、一度怒りスイッチが入ると物凄い爆発力。(^_^;)
昨日、デュプロブロックで遊んでいたりらら、基礎板の下に車をつけたかったのに、そういう作りになっていない!と怒りはじめました。
「こうして遊びたいのに、なんでそういう風に出来ないようになってるの?コレ作った人、そういう風に子どもが遊ぶかもって考えなかったのかね?!(# ゚Д゚)」
気持ちはわかります。笑 そしてまだ怒りは続きます。
「作った人だって子どもだったはずなのに、なんで考えないかね?!」
そうですよね。笑 忘れちゃってるんですよ、大人は。自分が子ども時代に理不尽な思いをしてきたことも。本当に申し訳ありません。笑
こうして言葉にして表すこともあれば、言葉にならない怒りもある。
「怒り」も表現の方法のひとつ。
大人はそれを言葉にさせようとしたりしますが、もし、そこで言葉にできたとしても、本人が本当に感じているであろうこととはズレていたり、大人の納得したい答えを導き出しているに過ぎないことも多々あると思います。「怒りたい」のであれば、とことん怒るしかないこともある。それが必要な時もあると思います。でも、それを言葉にして表現させ、大人が納得したい要素として分析する必要もない。
怒ってる彼を「あぁ、怒ってるんだねぇ。嫌なんだねぇ。激しいねぇ・・・どうにかならんかねぇ・・・いや、どうにもならないから怒ってるんだよねぇ。うん。でも、そんなに怒らなくってもいいんじゃないのかねぇ・・・(^_^;)」とか思いながら見守るしかないわけです。笑
子どもが怒っていると親(大人)の心がザワザワするのは、自分が責められている気持ちになるからだと思います。子どもは、別に親に対して怒っているわけでも、責めているわけでもない。そこは分離して考えていいところなのですが、それくらい親、特に母と子って近い、ってことなんでしょうね。でも、全く別の人間、です。わかりたいとは思って努力はしても、決して同じようにはわかりえないと思います。
そして、怒りや悲しみは、【負の感情】か、というとそうではないと思います。寂しいとかそういったことも。それをふまえた、まるっと含めた「喜び」であると思うのです。
「怒り」も「悲しみ」も「寂しさ」も一見、負の感情に見えるのですが、私は、「通過点」だと思います。夫にこの話をしたら、「なるほど、【ダメな状態】とは、【そうであってはならない状態】ではないってことだね。」と。
私達は常に「良い状態」であることを「そうあるべき状態」に置き換えがちだと認識しておいた方がいいのだと思います。
だから大人は子どもや人が怒っていたり、泣いていたり、グズグズしたり、一見不快そうに見える状態を【そうであってはならない状態だ】と思っている。
でも、思うのです。
怒りも悲しみも、寂しさも、喜びも本来はなんら変わりないものなのかもしれないと。その根源はきっと同じでなないのだろうか、と。
怒りは負の感情なのか?と考えると、【通過点】だと思います。
不快から快への通過点。
彼の言葉にならない姿は私に「言葉にすることが全てではない」「物事はまとめる必要はないし、そもそもまとまるものではない」といつも感じさせてくれます。
人は成長の過程の中で、少しづつ「不快」と「快」の振り幅が少なくなって行くことを経験の中から獲得していくのだと思います。自分が生きやすい、本当に使うべきところにエネルギーを使うやり方を周りとの関わりや経験から少しづつ、自然と身に着けていくのだと思います。
彼がこれからも自分自身が大好きであり、自分の好きなことを十分面白く味わいながらやって行くことを邪魔しないようにしたいです。
地顔が笑顔。神様からの素敵な贈り物。
我が家のポジティブな在り方の中心である彼に感謝です♪
母が「お母さんが怒ると、りららに気を遣わせてしまうよね。ごめんね。」というと、
いつもの笑顔で、「いいんだよ~いいんだよ~(*^^*)」と達観したお祖父さんのように言ってくれるりらら。(^_^;)も、申し訳ありません・・・。母、もっと懐を深くしたいです。(^_^;)
いつもありがとう!!!!!
昨日と、今日、そして明日はつながっている。
我が家の第一子きりん。昨日で10歳になりました。いつも見守ってくださる皆さんのおかげで無事に育っています。ありがとうございます。
彼が産まれて、いえ、正しくはお腹に命として宿ったときから、彼に出逢ってからというもの、私と夫は心身共に変化し続けてきたと思います。変化せざるを得ない状況にいつも置かれる、といった方がいいのかもしれません。笑
私と夫の子どもであるけれど、彼は全くの別の人間である。「個」としての尊重をすることは、意識するまでもなく、あたりまえのこととして、彼を目の前にしたときに、私に備わった感覚でした。今思えばとても不思議なことなのかもしれませんが、そうすること以外にないと彼に出逢った時から、今に至るまで感じています。
10歳というと、ハーフ成人式だとか色々あるようですが、私達家族にとっては、「昨日があり、今日があっての10歳。」でしかない。そんな感覚です。
そして、明日にもつながっている。しかし、明日につながってるということは、あたりまえではなく、有り難いことでもある。
自分をもっと好きになって、自分の好きなことをもっとみつけて、自分のしたいことをとことん楽しむ。
彼がそんな風に生きてくれたら素敵だと思います。
けれど、本当はそのようなことさえも、実はそれほど重要でははないのかもしれなくて、そこにあなたが居てくれるだけで、私達はしあわせなのです。
いつもたくさんの気付きとやさしさをありがとう。
彼は言います。
「本当のことはいつだって自分自身が知っている。だから大丈夫だよ。」
この言葉にどれだけ救われてきたか、励まされてきたかわかりません。
第一子は開拓者。
親の心身を鍛え導き、第二子以降の兄妹の為に世の中への布石を打つ。笑
一見、険しく見える道さえも逞しいマインドでクリアしていく。
・・・あのぅ・・・そのやり方ですけどぉ・・・時々、親の方がドキドキしちゃうんですけどぉ・・・ってことも多々ありますが、本人は飄々として涼しい顔。(^_^;)笑
置いていかれっぱなしですが、母ももっと成長したい。ゆるくだけどがんばります。笑
あなたに出逢えたことに感謝して。
産まれてきてくれてありがとう!
いつでも超!マイペースな彼をあたたかく見守ってくださっている多くの方々、本当にありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします♪
『「わかる」ことなどないのだよね。多分。の巻。』
前回のブログからなんと5ヶ月も経っていました。皆様、我が家の3兄妹共々、今年もよろしくお願いします。笑(旧暦では2月が新年だしね。笑)毎日の日々は、何処か遠くに旅に出ている感覚に近いものがあります。一言で言えば、「飽きることなどない。」いや、本当に子どもたちとの日々は飽きることなどないし、飽きる暇などないです。笑
『わかる』って?
ずっと私の中で考えていることの一つである、『わかる』ということ。
「わかる」ってどういうことだろう?と。
相手を理解する、とか、状況を把握する、とか、問題を解くとか、いろいろあると思うのですが、様々な点から考えた時に、「あらゆる事柄は、そう簡単にはわかるとは言えない」と思っています。
『わからなくもない』という表現。
そんな中、昨日こんな出来事がありました。
幼稚園で年中さんと年長さんがなにやら揉めていました。年中さんは2人、年長さんは数人。原因はわからないけれど、なんだか長い時間やりとりしていました。年中さん一人に対して年長さん数人がいろいろ言ったり喧嘩モードになっていたので、しばらく様子を見ていましたがちょっとエスカレートしそうな雰囲気を感じたので、「一対三とかは無しなんじゃない?」とさらりと声をかけたりして引き続き様子を見ていました。
そんな様子を見ていたりららが、ぽそっとこんなことをいいました。
「りらら、Sの気持ちもわからなくもないよ。」と。「りららも同じようになったことあるから。」と。(Sくんは年中の同じクラスの子で今回年長さんに色々言われたりしていた男の子です。)もちろん、それを本人に伝えるわけでもない。
「わかる」ではなく、「わからなくもない」です。
「わかるよ」というと、共感しているように聞こえることもあると思いますが、実際、相手と同じように感じることはとても難しく、相手の立場を最大限想像したとしても、「簡単にはわかりえないのでは?」と思うのです。
そんな時に、りららの言った「わからなくもないよ」というのは、「わかるよ」ではなく、相手の立場を想像した時に、また、自分も同じような経験をしたことがある、でも、違う人だから、同じようには感じてはいないかもしれない。だから、「わかるよ」ではなく、「わからなくもないよ、その気持ち。」なのではないかな、と。
それは、彼の今までの経験の中で多くの方々に寄り添ってもらい、育まれてきた感性なのではないかな、と私は感じましたが、それも私の想像の範囲を超えはしません。
「わからない」から「理解する努力」をしたいと思うし、「わからない」から最大限想像力を働かせる。私がもっと成長しなくちゃな、すっかり置いていかれてるわ~と思った出来事でした。(^_^;)「わかる」「わかってる」と思ったらそこで自分の成長は止まってしまうだろうな。
昨日、車の中でりららが夫にこんなことを尋ねました。
「お父さん、心ってなに?」
5歳、ますます手強くなるな。笑
今日もまとめない。「娘を授かった意味。そして、結婚10周年。」
5月24日・今日もまとめない。「『もの』とは何か?」
【『もの』とは何なのか?】
最近、考えていること。『もの』とは何なのか?先日、幼稚園でもフリートークという母や父やスタッフが自由に意見交換する時間に、昨今の玩具を通じて起き得るコミュニケーションの色々について話を聴く機会があった。様々な考え方があるし、どれが正解でも不正解でもない。
これだけの物が溢れている時代は「尋常ではない時代だよね」とスタッフの方の言葉。うん、本当にそうだ。アニメーションも玩具も「人の心を捕らえる」方法が、心理学的側面からも研究され、その上で作られている時代。コミュニケーションツールとして優れているとの話も聞く。「欲しい!と[自分]が思っている」のか、「欲しい!と思わされている」のかさえも、曖昧なのではないかと思うことがある。年齢が低ければ低いほど、その境界線は曖昧になる気がする。
我が家には、今の所、そういった玩具がない。子どもは、幼稚園や友達が持っていてその存在は知っている。でも、今の所欲しいと言われたことがない。私や夫も興味がないし、家にテレビが無い、というのもあるのかもしれない。玩具に限らず、こどもに何か買うことがあるとする。私は、ある時、「子どもが欲しい」のではなく、「子どもが喜んでくれることで、自分の気持ちを満たしたい」という上での行為だったと気がついた。でも、こどもたちは、私が物を買い与えなくても、毎日楽しそうだし、それは私自身の問題なのだなぁ、と思ったことがあった。それ以来、「子どもが本当に欲しがっているのか?それとも私が買ってあげたいと思っているのか?」と考え感じる時間を持つようにしている。
【コミュニケーションツールとしての玩具】
玩具をもっていることで、仲間に入れてもらえる。遊びのきっかけになることもあるようだ。それも事実の一つなのだと思う。では、もっていないとどうなるの?と考えた。これは、私の個人的な考えで、子どもの性格にもよると思うが、「子どもに限らず、人は、様々はコミュニケーションのとり方が出来る」ということ。私の子ども時代にもテレビゲームが流行っていたが、私の家にはなかった。テレビゲームで遊ぶとなると、話題に入れないなどあったかもしれないが、同じ様にゲームを持たない子との交流が増えて、違う遊びが広がった記憶がある。現代より子どももたくさんいたし、他にも選択肢が多かった時代だからかもしれない。私の性格が「別にその中に入らなくてもいいじゃん。」というタイプだったからかもしれない。今は子どもも少なく、その中に入れないことで、子どもだけでなく、親も不安になるのかもしれない。
【「尋常でない量の物が溢れている時代」をどう生きるのか?】
一歩外にでれば、そこかしこに物が溢れている。「もの」も使い方によって、便利で暮らしやすくなることも多々ある。しかし、「ただあればよい」わけではない気がする。どのように選び、所有し、どのように使うのか。壊れた時はどうするのか。失くした時はどのように対応するのか。日々、どうやって扱うのか。それは玩具でも生活用品でも、なんでも同じだと思う。子どもたちは大人が「もの」をどの様に位置づけて扱っているかを感じていると思う。「もの」を通じて、「一番身近である親の価値観や在り方」を感じていると思う。大袈裟な言い方かもしれないが、どのような「もの」を選択し、どのように扱っていくのかを通じて、「もの」は自分の生き方を体現化してると思う。
【きりんの帽子。】
きりんが3歳の時から被っていた帽子がある。冴え渡る青空の日も、雨の日も、来る日も来る日もこの帽子を被り、外で虫採りに明け暮れる。そんな彼とずっと一緒だった帽子。穴があくと繕い繕い使う。その帽子がついに、頭の天辺部分が薄くなり生地が裂けてしまった。帽子が裂けるのか!と私も驚きつつ、しみじみと眺めた。あまりにも汚れ、穴が空き、どうにもならなくって、新しいものを購入しようか、と声をかけても首を縦に振らない彼。「この帽子が好きだから、新しいものはいらない。」と言い続けていた。同じデザインの物ならいいだろうか、と探してみたが見つからない。でも、「同じ物」など存在しないのだ。彼が6年間の時を一緒に過ごした帽子はこれだけなのだ、とその時思った。彼にとって、ボロボロでも、この帽子の代わりはないのだ、と。出来る限り補修し、使ってきたが、もうどうにもならないところまで来た。そして、新たな帽子を一緒に買いに行った。新しい帽子も快適ではあるようだが、「新しい」ことだけを喜んでいるわけではなく、「この帽子もず~っと大切に使うんだ♪」と言っている。彼の成長と共に姿を変えてきた帽子を、玄関に飾った。
「もの」について考えるとき、私はこの帽子をまた眺め、手に取っていこうと思う。
・・・『もの』ってなんだろう?
きっとこれからも感じ、考えていくことなのだと思う。
5月20日・今日もまとめない。「学びって・・・・。」
リラ冷えでしょうか。庭のライラックが少しづつ花をつけ始めました。昨日の雨から今朝は綺麗な青い空が雲の切れ間から見えます。この青はどこからくるのだろうと眺めている穏やかな朝です。
【理解する過程を知ることは、ワクワクすること。】
学校に行っていたら、小学3年生の息子・きりん。全く学校に興味なしの現在。おそらく、学校の存在自体、殆ど忘れかけているのでは?とさえ思えます。(笑)(本人は、「学校やめたから~」とか言うこともありますが、現在の教育制度上、辞めるのは難しいです。笑)そんな彼ですが、教わっていなくても、教えなくても、文字を獲得したりしているわけですが、冬の終わり頃、ちょっとしたやりとりから、彼の繰り下げ計算について夫と話しているのを耳にしました。夫に買い物を頼み、そのお金を払うよ、というきりんの発言から始まったのですが、「200円渡したら、108円のブラシを買った時に、お釣りはいくらか?」という夫の質問に、「88円」「どうしてそう思ったの?」というやりとりの中で、繰り下げ計算を彼がどのように考えているのかがわかり、それが、とても面白かったのです。学校では、多くの場合、答えを出すことがメインになり、その「過程」は段々と注目されなくなっていく気がします。「どんな過程であろうと、答えがあっていればいい」という方向になりがちではないかなと。そして、その「理解する過程」というのは、本当に人それぞれ違うのだろうと思います。1クラスが30人以上いる環境においてもひとりひとり理解の過程はきっと違うのですが、それをゆっくり聴くには、大人たち、先生たちは忙しすぎると思います。でも、今回、きりんの話を聴いて、単純な?私は、「あぁ、こうやって理解しているのか!」と感銘さえ覚えて(笑)面白くてたまらないと思いました。理解の過程を知ることは、私にとって、物凄く面白いことだったのです。そして、これが、ひとそれぞれ、その子どものタイミングによっても全然違うんだ!と思ったら、ますますワクワクするのです。
【学びとは物凄く個人的なもの。】
きりんが、5歳・年中クラスの時、「きりんは、学校にいかないよ。」と言いました。あ、そうなんだ。と聞いていました。就学年齢になったらまた変わるのかもしれないし、どちらでもいいと思いました。ただ、漠然と、もし学校に行かない場合、きりんが学ぶ場が必要になるかもしれない、と思って、フリースクールのことを調べたり、立ち上げた場合に補助がでるのか?など調べたりしました。しかし、一番の大きな問題は、「私自身が、そこに携わるに相応しい自分であるのか」ということ。さらに、人を集めてやる場合、「子どもの学びたいタイミングはそれぞれであり、学びたい事柄はそれぞれであるときに、どのように対応できるのか?」ということでした。ある人は言葉に興味があり、ある人は数字に興味があるかもしれない。どちらも生活に直結しているので、学びを分ける事自体もなんだか違う気がする。教科ごとにわける事自体がなんだか生活から離れた学びになってしまうよなぁ・・・とか。結局、色々考えて、きりんの様子を見ても、学びの場を私が設定する、というのも何が違和感があると思い、今は卒園した幼稚園で受け入れてもらい、フリースクールのように通わせていただいている状況です。
きりんと夫のやりとりを聞いていて、こんな風に理解の過程は本当に個々で違い、タイミングも違うことを実感すると、学校や学びの場を創ろうとするならば、子どもへの理解を深める努力をし続けることができる大人と子どものタイミングに対応できるそれなりの人数の人員が必要になると思います。そして、子どもに関わるということは、それだけ子どもの将来に少なからず影響を与えるうる存在になるということを常に強く自覚し、それが、喜びにもなり得るし、恐れでもあるとういことを感じ続ける必要があると思うのです。今の私自身は子どもの環境として、自分がそぐわないなぁ・・・思っているので、多くの子どものあつまる場を創ることは難しいと思っています。(それでも、子育てさせてもらっていますが・・・ありがたいことです・・・)いずれにしても、学びとは、物凄く個人的なもの。それを集団にしたとき、どれだけそれに対応できるのか。そのタイミングをどれだけ拾い上げていけるのか。そんなことを思わせてくれた夫ときりんのやりとりでした。
【子どもは自由自在に学ぶ。大人は美味しいおやつを出すだけとか。】
もっと自分が学びや考えを深めていって、年齢を重ねて行った時、様々な年齢の子どもたちが家になんとな~く集まって、自分のやりたいことをやり、わからないことはお互いに教え合ったり考えて工夫したりする《おばちゃんの家》のようなものが地域にあったら面白いなぁ~とぼんやり思っています。おばちゃんは、余計な口出しせず、美味しいおやつとかおむすびをとかを出してそこにいるだけ。そんな居心地の良い、風通しの良い場所ができたら面白いだろうな、と妄想したりしています。陽だまりの中で、縁側でおやつを食べたりして。昭和な田舎の一軒家のイメージですが。(笑)おばちゃんはたまに喋ったり、頷くだけ。時間がかかり、「おばちゃんの家」を通り越し、「おばあちゃんの家」でもいいので、いつかそんな場が自然発生的にできたらずっと退屈しないなぁ、なんて思っています。そこにおじちゃんやらおじいちゃんも居て、大工仕事したり、畑仕事してたりしても楽しそうだな。妄想は膨らみます。笑
『子どもは、自分で学びの場を掴み取ることができる。』
自分で必要なことを、学び獲得して育っていくと、自分が「何がやりたいのか」ということが、段々と明確になっていくのではないかと思っています。それが、いつ、どこで、というのは、それぞれだと思いますが。
そして、学ぶことを楽しいと感じて育つと、きっと自分で学びの場を掴み取る力があるのだと思います。大人としてはその環境をどれだけ用意できるか、という役割を担っているのだろうとも日々思います。子どもの傍にいる大人として、その環境を用意できる引出しをもっと増やしていきたいなと思います。しかし、これがなかなか難しく、いったいどういった環境を整えられるのか?と夫婦間でもよく話し合いのテーマになります。その一方で、子どもは大人が用意しなくても、自分でどんどん開拓していき、自分の進むべき方向へと歩んでいき、自分で選択していく力があるのだとも思います。子どもが選択に迷った時に、できるかぎりの選択肢を伝えたり、やりたいことを最大限サポートする、一緒に考えるくらいの気持ちでもいいのかもしれません。ついつい「なにかしなければ!」という肩に力が入った感じになりがちなので、もっと緩やかにとらえていきたいと思います。
こどもたちの未来は、いつだって光に溢れている。
その向かう先への道のりをできるかぎり邪魔しない。
私もワクワクしながら学んで行きたいと思います。
今日も澄んだ青空を眺めながら、気持ちよく過ごしたいと思います。佳き一日になりますように♪
5月19日・今日もまとめない。「春は徒然、我が家は思春期花盛り。」
5月も半ばを過ぎました。新学期が始まり怒涛のようでした。日々濃いです。ブログもPC開いて書いては、子どもたちに呼ばれて、閉じ、そのままになり、また開いては呼ばれて・・・以下同文。(笑)そんな毎日ですが、飽きることなく、盛りだくさんです。今日は春の冷たい雨。ちょっとホッと一息つくこの感じが心地よいです。最近の我が家の庭は、水仙や林檎の花が咲いています。家の中では、第一子・きりん(9歳)に加え、第二子・りらら(もうすぐ5歳)も思春期に突入しております。(^_^;)
【次男・りらら思春期花盛り。】
次男・りららは年中組になり、ますます思春期花盛り・満開の気配。(-_-)
どんなことでも、注意されると気に入らない、どんな注意の仕方をしても気に入らない。ちょっと注意しても大声で怒ったりする。気に入らないとゴミ箱を投げる、ドアを蹴る・・・・。先日は、炊きたてご飯の卵丼が、本人が思っていたより熱かったらしく、「熱い!」と皿を払い除けました。(# ゚Д゚)なに~!!!!!!!!昭和の封建親父か!?と思いつつ、いつもなら、「食べなくていいよ!」となるのですが、少しパターンを変えてみよう、と思い、「そんなに熱かった?気がつかなくてごめんね~」と冷静に言ってみました。心の中ではワナワナ(# ゚Д゚)していましたが。笑
しか~し!どうしても注意しなくてはならない時がある。危険なことは勿論、親である私たちの姿から、「こんなことは不快だと思う」「これはやっちゃダメでしょ」という線引を日々の生活の中で伝えたり、感じることも大事だと思っているからです。基本的には、「ここまでやったらダメだろう」「危ないだろう」ということは、既にわかっているし、身体でも感じていると思います。それでも、「やってみたい」「試してみたい」という場合もあると思います。
【言葉にならない機微がある。】
どんな風に伝えたら、お互いに嫌な気持ちにならないのだろう?と私も日々考える。第一子・第二子・第三子(これからね)で、それぞれ性格も違うわけで、同じ伝え方では伝わり方が違う。親の脳内変換が求められているのです。しかも急務。(^_^;)
第一子・きりんはどちらかというと身体でぶつかってくるタイプではありません。言葉で表現する傾向があります。故に口達者で私も敵わなくなってきていますが・・・(^_^;)しかし、第二子・りららは言葉で表現しきれない時に、身体で表現してくることが多くあります。本気で私を叩いたり蹴ったりすることもあります。言いたいけど現しきれないもどかしさ、を彼から感じます。でも、それも大事な表現だと思います。全てが言葉に置き換わるわけではない。言葉にしないだけで、感じている。ある時、泣いていた彼に、「どうしたの・・・?」と聴いたら、「・・・言えない。」と言ったことがありました。私はハッとしました。「言えない」ことがある。言いたくないことがある、言葉にしない感情や、言葉にするには微細でしきれない事柄が、毎日毎日、瞬間瞬間起きていて、それを感じている。
言葉にした瞬間に、それは全く違ったものになってしまう。
言葉は便利なツールであるけれど、それが全てではない。
同じ言葉を使っても、使う人によってその感じ方も意味合いも微妙に違う。
言葉の持つ「限界」と「危うさ」がある。
【それぞれの成長を感じる機会。】
そんなことを思って試行錯誤していた矢先、色々あって、私とぶつかり、りららの感情大爆発が続き、私もついに爆発しました。
「どんな伝えかたをしても、気にいらないって怒るし、でもどうしてもやってはいけないこともある!どうしていいかわからない!もう疲れた!!!」と子どもたちの前でわんわん泣きました。まぁ、様々な日々の疲れも溜まっていたこともあったと思います。その日は夫が早めに帰宅してくれいて、その現場を見ていたので、りららを誘ってお風呂に入ってくれました。
私がメソメソして、「・・・もうどうしていいかわかんない。」と呟いたら、きりんが、「お母さん、きりんもそうだったよ。小さい時は、注意されると自分が責められてる気持ちになっちゃうんだよ。でも、大きくなると、そうじゃないってわかるから、受け流せるようになるからさ。今は、りららも自分を出している時期だから、見ていてあげたらいいよ。」母、号泣。
もう、どっちがお母さんかわからない。(笑)その夜、布団に入ってきたきりんが、「お母さん、今日はりららのことお疲れ様ね。でも、もう少し大きくなったらわかるようになるからさ、大丈夫だよ。よく眠って休んでね。」母、布団の中でまた号泣。笑
りららの思春期花盛りは、私の脳内変換の必要性と、私が言葉にいかに依存しているかとういう事への気づきの機会でありました。そしてまた、りららの成長を感じる機会でもあり、それがまたきりんの成長をも感じさせてくれているのです。あぁ、こうしてみんな大きくなっていくんだ。母も置いていかれないように成長したいです・・・。なかなか疲れますが、母、日々ガチンコです。スルーできない、ガチンコ体質なのか?!と最近思います・・・笑
私が爆発している間、きりんが、末娘を抱っこして違う部屋にそっと連れていきました。そして、ずっとあやして遊んでいるのが視界に入りました。きっと意識してのことではないと思いますが、妹がその場に居ないほうがいいと感じたのだと思います。そんなさりげない配慮に驚きます。
子どもたちは、言葉にしない、ならない部分で大人が思っている以上に、多くのことを感じ取っている。それを言葉にしないからといって、わかっていないわけではない、感じていないわけではない。どこまで、思いを馳せ、寄り添えるか。まだまだ修行の足りない自分を痛いほど感じています。
言葉の限界を感じながらも、今日もこうしてまとまらない言葉を綴っていく。今日も素敵な素敵な一日になりますように。