大人と子どもの境目はどこなの?
きりんに、こんな質問をされました。
「こどもはいつから大人になるの?どこから大人になるの?」
うーん・・・難しい、というか、私にはわからない。(笑)
社会的な定義だと、例えば選挙権を得たら、とか
社会に出て働くようになったら、とかあるのかもしれませんが、
そういったことを聴いてるわけではないだろうから、そのことも話しつつ、
結局、「お母さんにも難しくてわからないから、引き続き考えてみるね。」と
答えました。
そして、
「きりんが自分の周りで『この人は大人だな~』って思う人はいる?」
と尋ねたら、
「いない。」
と即答。(^_^;)
父も母も彼からみて、「大人」とみなされていないらしい・・・。
ちーん・・・・(^_^;)
今度、きりんの思う「大人」ってどんな感じなのか話を聴いてみようと思います。
「大人」「こども」をどのように捉えていくか変わってきますし、
そもそもその線引をする必要があるのかなぁ?と思ったり。
社会では例えば何歳以上は大人料金です、とかそういった目安としてわかりやすいので、境目を付けることもあるとは思いますが。
大人って、なんだろう?
引き続き感じて考えていこうと思います。
いつも思うのは、大人であるとかこどもであるとか、
そういったことを越えて「ひとりの人」としてどうあるかということをお互いを大切にしていけたらいいなということかな。
答えのでないこと、正解のないことはたくさんある。
でもそれに想いを馳せたり、考えてみることは面白いなと思います。
「わからないことってたくさんあるんだ。」と思うことも悪くないと思います。
というより、私にとっては、世界は「わからないな~」と答えのでないことだらけです。(笑)
こどもたちに質問されるといつも思うのですが、「正解」を求めて聞いてるのではないんだろうな、ということです。(虫の飼い方とか、ある程度良いやり方のあるケースへの質問は別だと思いますが。)
あくまでも、「あなたはどう考えてるの?」と私がどう考えているかを知りたいと
思って聞いてることも多くある気がします。
正しいとか間違ってるとか、そういったことではなく、自分がどう感じ、
どう考えて生きてきているのか。
また、何を大切に思っているか、何にとらわれ、こだわっているのかもよく見えてきます。
こどもたちに、色々質問される時、
私は、自分を見つめる機会をまたひとつ得ているんだな、と思います。
私自身が、『大人として、人としてどう在りたいのか』を引き続き模索していこうと思います。
好きなことだけをして生きる。
昨日、幼稚園で「足元の小宇宙」というNHKで放送された映像をこどもたちと
鑑賞しました。
「埴沙萌(はに しゃぼう)さん」という80歳を過ぎた植物写真家の方の
ドキュメンタリーでした。
我が家の子どもたちは、興味津々で観ていました。
買ってきた椎茸やしめじからも胞子が飛んでいたよ!
家でも見えるかやってみたい!
と、帰宅して夫に熱心に二人で映像の内容を話していました。
私は観ていて
「命の輝きを遺す」ことをしている埴さんの輝きを感じました。
好きなことをして生きていると、こんな素敵なお顔になるんだなぁ・・・。
私も40年後にああいう顔をして生きていられたらいいな。
好きなことだけして生きていけばいいよ、と子どもたちに思うのです。
好きなことの中の苦労や大変さはきっと大人の思う苦労や辛さではないかもしれない。
好きなことの中のひとつの過程でしかないのかもしれない。
私も、できるだけ、好きなことだけして生きていきたい。
40年後の自分の顔を鏡で観るのを楽しみにしながら。
「自分たちで決めて、納得する。」
先日のブルーベリー狩りの後の事。
甘くないものを求め(笑)昼食を摂る為に近くのショッピングセンターに入ってるお店に行こう、ということになりました。
レストラン街をぐるっと見て回り、「何が食べたい?」と聞くと、
きりんは「中華」りららは「イタリアン」・・・・
「どうするか、二人で話し合って決めて。お母さんはどっちでもいいから。」
と言って話し合うこと30分以上。(-_-;)
大抵の場合、譲ってくれる事が多いりららも、その日は頑として「どうしてもパスタとフォカッチャを食べたい!」と言って譲らない。
きりんは、「どうしても中華が食べたい!」と譲らない。(^_^;)
きりんがジャンケンを提案するも、りららが、「ジャンケンは嫌いだ」と拒否。(笑)
「パスタでも中華でもないものにしたら?」と言ってみたけど、ブーイングの嵐。(笑)大抵の場合、りららが譲ってくれるので、「今日は譲ってあげたら?」と、
試しに言ってみるも、
「きりんが合わせればいいってこと?!(# ゚Д゚)」と憤慨する。(笑)
「とにかく、二人で話して決めて~。決まらないなら、お母さんが食べたいお店に入るか、家に帰ってご飯にするからね。」
そこからまた20分ほど経過。
私はレストラン街のフロアにある子ども服をちらちら観たりして時間潰し。(^_^;)
すると、突然、
「今日はパスタにすることにした。」ときりんが言いに来たのです。
どうやって決めたんだろう?
きりんに聞いてみましたが、「ん~忘れた。」と。(^_^;)
あれだけ「中華がいい!」と言っていたのに、自分で、「これでいい」と決めた後は、
「本当は中華が良かったのに~」とかいう事は、一切言いません。
自分で決めるということは、そういうことなんだなぁ。
「本当はこうしたかったのに!」という想いが残ると、知らないうちにそれが
不満となって自分の中に残ることが多くある気がします。
自分で決めて納得する。
どこかで折り合いをつける。
私にとっては、簡単なようで、結構難しい。
子どもたちはそうでもないようですが。(笑)
でも、大事だな、と思います。
そうでないと、本当に意味で、先には進めないんだろうな、きっと。
おがわのじかんで、わたしのじかん。
「自然な生き方」ってなんだろう?
最近考えてること。
「自然に」とか「ナチュラルな」生き方とか、暮らし方って、
なんだろう?ということ。
人によってその価値観も定義も、全く違うと思うのです。
昔ながらの暮らし方をすること、
エネルギーを無駄遣いしないこと、
自然のある環境に近いことで暮らすこと、
きっと色々あると思うのです。
私の中では、文明が発達したこと、科学技術が発展してきていること、
それが良いとか悪いとかではないと思っています。
必要に応じて発展してきたと思うからです。
そして、それを何処かで求めていた私を含め、多くの人がいて、そのような結果になっている。
そして、ただ、その扱い方が過剰になったり、方向性がちょっと違ってしまい、
今、様々な問題になっているのかな、と思います。
話がちょっとそれました。
で、自然な生き方って?
と考えた時に、「自然とは?」と、調べてみました。
自然とは・・・
1.人手を加えない、物のありのままの状態・成り行き
2.この世のあらゆる物の総称。
ナチュラルとは・・・
1.自然であること。天然であること。飾り気や誇張のないこと。また、そのさま。
2.音楽で、変化記号を取り消し、もとの音に戻すための♮の記号。
ここで、私がしっくり来たのが、「ナチュラルとは、音楽で、変化記号を取り消し、
もとの音に戻す」という一文でした。
そう、本来在る自分に戻っていく。
余計な思考な行動パターンを削って、元の形に戻っていく。
その作業をする為に生かされているのかもしれないなぁ・・・・と。
本来ある姿、形は人それぞれ。
そこに戻る為にいろいろ学んでいる。
その過程も、それぞれ。
自然な生き方って、私にとっては、「私のもとの音を探す旅」なんだ。
あ~スッキリした。(笑)
きりんと夏休みの宿題。
昨日、図書館へ行きました。
図書館が改装工事で、もうすぐ長期のお休みになるので、
本をたくさん借りよう!と子どもたちが張り切っていました。
りららと恐竜図鑑を座って読んでいると、小学生の女の子とお母さんがやってきました。どうやら、小学校3年生らしい。
ドーンと机に置かれたのは、どうやら夏休みの宿題のようです。
お母さんは、指導モード全開で、赤ペンで◯やら☓やらチェックして、
間違えていた箇所を指差して、
「ここ、違う。やりなおして。」
子どもは「ねむ~い」「だる~い」と机の上に伸びています(^_^;)
しばらく母娘のやり取りを聞いていると、一方的な指導が続き、
間違えた問題を子どもがどう考えて、その答えに行き着いたのか、
というようなことには一切触れることはありません。
プリントには沢山の付箋が付いていて、お母さんのチェックが入って
いるようでした。
子どもが、やる気を見せないと、
「だらだらすんな!」
「図書館は20時まで開いてるんだからね!」
20時までやるつもりなのか・・・(^_^;)
子どもは、何度もトイレに立ち、自分なりに息抜きをしているように見えました。
(トイレからなかなか帰って来なかったりする。(笑))
これで勉強が好きって思えたら、ある意味凄いな~(^_^;)
と、思いながら、恐竜についてりららが話してくれるのを聞いていました。
きりんも自分の借りたい本を選びながら、
その母娘のやり取りをしばらく観察していました。
そしてボソッと一言。
「勉強、大変そうだね。」
「そうね~。夏休みの宿題やってるみたいだね~」と私が言うと、
「宿題のプリントなんて、裏紙にしちゃえばいいのにね~。」
(≧∇≦)
それ、みんながみんなしてませんから!(笑)
我が家ではそれが有効利用の方法のひとつですが・・・・(^_^;)
学ぶことは、楽しいものである、と思います。
知りたい、やりたい、から湧き上がる気持ち。
「宿題をやる」ことがあたりまえである、という状況に置いては、
親も、「やらなければ子どもが困る」と必死なのでしょうし、
「やらない」という選択肢などないのだと思います。
学びが子どもにとって、「やらなくてはならない事」になった時、
学びに対してどのような気持ちになるのかなぁ・・・と思いながら、
図書館を後にしました。
しかし、「宿題のプリントは裏紙に!」って。(笑)
そんな標語が流行ったらある意味凄いな。(≧∇≦)
「あたりまえではないこと」の積み重ねの中で育つことの有り難さ。②
幼稚園スタッフMさんが家族キャンプの前日に、こんな話をしてくれました。
「家族キャンプの準備で、めっちゃ暑い日に、広場の草刈りをしていて、
その草を沢に投げていたんだよね。で、ふとみたら、きりんも同じように草を
運んで作業してくれてたの。でも、『ありがとう』と声を掛けるのは違う感じがしたんだよね。自分にもできることを、ただやってる、っていう雰囲気で、『手伝ってくれてありがとう』というのは、上からの目線になっちゃうなぁ・・・なんて言えばいいかな~って思って最後まで考えてたんだよね~終わった!イエーイ!ってハイタッチするのが一番良かったかな~なんて思ったけど(^^)」
この話を伺って、
「ありがとう」という言葉かけひとつにも、こんなにも心を配ってくれている・・・!
ということに、驚きと共に感謝で胸がつまりました。
ありがたいなぁ・・・・。
いかに、上下の関係でなく、横の繋がりを大切にしてくれているか。
「子どもだから」ではなく、「一人の人として尊重されているか」。
その時のきりんは、きっと、
お礼を言われたいとか、褒められてたいとか、認められたい、とかではなく、
単に、そこに居て、自分に出来ることをしたに過ぎなかったのでしょう。
それも、私の想像でしかありませんが・・・・。
きっといつもスタッフがどんなに大変だと思われる事柄も、
「あたりまえのこと」として、楽しみながらしてくれてる姿を観て感じて、
そのようにしたんじゃないかな、と想像したのでした。
Mさんの感性にはいつもいつも支えられ救われ、気づきを沢山頂いています。
繊細な感性と、ユーモアと愛。
勝手に私の心の師だと思っています。(笑)
「あたりまえ」のようにしてくれていることが、
いかに「あたりまえではないこと」であるか、「有難いこと」であるか、
それを日々感じられる環境であること。
こどもたちの中にそれは深く、強く、根付いていくのだと思います。
これからどんな社会で生きていくのかわかりませんが、
その時にこの「あたりまえでなはない」ことの積み重ねの中で
育ったことが、彼らの揺らぐことなき根となり、生きることを支えてくれる。
私はそう確信しています。
そして、こどもたちには到底及ばないながらも、
私も少しづつでも、成長してもっと自分を見つめて生きていきたいと思います。