好きなことだけをして生きる。
昨日、幼稚園で「足元の小宇宙」というNHKで放送された映像をこどもたちと
鑑賞しました。
「埴沙萌(はに しゃぼう)さん」という80歳を過ぎた植物写真家の方の
ドキュメンタリーでした。
我が家の子どもたちは、興味津々で観ていました。
買ってきた椎茸やしめじからも胞子が飛んでいたよ!
家でも見えるかやってみたい!
と、帰宅して夫に熱心に二人で映像の内容を話していました。
私は観ていて
「命の輝きを遺す」ことをしている埴さんの輝きを感じました。
好きなことをして生きていると、こんな素敵なお顔になるんだなぁ・・・。
私も40年後にああいう顔をして生きていられたらいいな。
好きなことだけして生きていけばいいよ、と子どもたちに思うのです。
好きなことの中の苦労や大変さはきっと大人の思う苦労や辛さではないかもしれない。
好きなことの中のひとつの過程でしかないのかもしれない。
私も、できるだけ、好きなことだけして生きていきたい。
40年後の自分の顔を鏡で観るのを楽しみにしながら。
「自分たちで決めて、納得する。」
先日のブルーベリー狩りの後の事。
甘くないものを求め(笑)昼食を摂る為に近くのショッピングセンターに入ってるお店に行こう、ということになりました。
レストラン街をぐるっと見て回り、「何が食べたい?」と聞くと、
きりんは「中華」りららは「イタリアン」・・・・
「どうするか、二人で話し合って決めて。お母さんはどっちでもいいから。」
と言って話し合うこと30分以上。(-_-;)
大抵の場合、譲ってくれる事が多いりららも、その日は頑として「どうしてもパスタとフォカッチャを食べたい!」と言って譲らない。
きりんは、「どうしても中華が食べたい!」と譲らない。(^_^;)
きりんがジャンケンを提案するも、りららが、「ジャンケンは嫌いだ」と拒否。(笑)
「パスタでも中華でもないものにしたら?」と言ってみたけど、ブーイングの嵐。(笑)大抵の場合、りららが譲ってくれるので、「今日は譲ってあげたら?」と、
試しに言ってみるも、
「きりんが合わせればいいってこと?!(# ゚Д゚)」と憤慨する。(笑)
「とにかく、二人で話して決めて~。決まらないなら、お母さんが食べたいお店に入るか、家に帰ってご飯にするからね。」
そこからまた20分ほど経過。
私はレストラン街のフロアにある子ども服をちらちら観たりして時間潰し。(^_^;)
すると、突然、
「今日はパスタにすることにした。」ときりんが言いに来たのです。
どうやって決めたんだろう?
きりんに聞いてみましたが、「ん~忘れた。」と。(^_^;)
あれだけ「中華がいい!」と言っていたのに、自分で、「これでいい」と決めた後は、
「本当は中華が良かったのに~」とかいう事は、一切言いません。
自分で決めるということは、そういうことなんだなぁ。
「本当はこうしたかったのに!」という想いが残ると、知らないうちにそれが
不満となって自分の中に残ることが多くある気がします。
自分で決めて納得する。
どこかで折り合いをつける。
私にとっては、簡単なようで、結構難しい。
子どもたちはそうでもないようですが。(笑)
でも、大事だな、と思います。
そうでないと、本当に意味で、先には進めないんだろうな、きっと。
おがわのじかんで、わたしのじかん。
「自然な生き方」ってなんだろう?
最近考えてること。
「自然に」とか「ナチュラルな」生き方とか、暮らし方って、
なんだろう?ということ。
人によってその価値観も定義も、全く違うと思うのです。
昔ながらの暮らし方をすること、
エネルギーを無駄遣いしないこと、
自然のある環境に近いことで暮らすこと、
きっと色々あると思うのです。
私の中では、文明が発達したこと、科学技術が発展してきていること、
それが良いとか悪いとかではないと思っています。
必要に応じて発展してきたと思うからです。
そして、それを何処かで求めていた私を含め、多くの人がいて、そのような結果になっている。
そして、ただ、その扱い方が過剰になったり、方向性がちょっと違ってしまい、
今、様々な問題になっているのかな、と思います。
話がちょっとそれました。
で、自然な生き方って?
と考えた時に、「自然とは?」と、調べてみました。
自然とは・・・
1.人手を加えない、物のありのままの状態・成り行き
2.この世のあらゆる物の総称。
ナチュラルとは・・・
1.自然であること。天然であること。飾り気や誇張のないこと。また、そのさま。
2.音楽で、変化記号を取り消し、もとの音に戻すための♮の記号。
ここで、私がしっくり来たのが、「ナチュラルとは、音楽で、変化記号を取り消し、
もとの音に戻す」という一文でした。
そう、本来在る自分に戻っていく。
余計な思考な行動パターンを削って、元の形に戻っていく。
その作業をする為に生かされているのかもしれないなぁ・・・・と。
本来ある姿、形は人それぞれ。
そこに戻る為にいろいろ学んでいる。
その過程も、それぞれ。
自然な生き方って、私にとっては、「私のもとの音を探す旅」なんだ。
あ~スッキリした。(笑)
きりんと夏休みの宿題。
昨日、図書館へ行きました。
図書館が改装工事で、もうすぐ長期のお休みになるので、
本をたくさん借りよう!と子どもたちが張り切っていました。
りららと恐竜図鑑を座って読んでいると、小学生の女の子とお母さんがやってきました。どうやら、小学校3年生らしい。
ドーンと机に置かれたのは、どうやら夏休みの宿題のようです。
お母さんは、指導モード全開で、赤ペンで◯やら☓やらチェックして、
間違えていた箇所を指差して、
「ここ、違う。やりなおして。」
子どもは「ねむ~い」「だる~い」と机の上に伸びています(^_^;)
しばらく母娘のやり取りを聞いていると、一方的な指導が続き、
間違えた問題を子どもがどう考えて、その答えに行き着いたのか、
というようなことには一切触れることはありません。
プリントには沢山の付箋が付いていて、お母さんのチェックが入って
いるようでした。
子どもが、やる気を見せないと、
「だらだらすんな!」
「図書館は20時まで開いてるんだからね!」
20時までやるつもりなのか・・・(^_^;)
子どもは、何度もトイレに立ち、自分なりに息抜きをしているように見えました。
(トイレからなかなか帰って来なかったりする。(笑))
これで勉強が好きって思えたら、ある意味凄いな~(^_^;)
と、思いながら、恐竜についてりららが話してくれるのを聞いていました。
きりんも自分の借りたい本を選びながら、
その母娘のやり取りをしばらく観察していました。
そしてボソッと一言。
「勉強、大変そうだね。」
「そうね~。夏休みの宿題やってるみたいだね~」と私が言うと、
「宿題のプリントなんて、裏紙にしちゃえばいいのにね~。」
(≧∇≦)
それ、みんながみんなしてませんから!(笑)
我が家ではそれが有効利用の方法のひとつですが・・・・(^_^;)
学ぶことは、楽しいものである、と思います。
知りたい、やりたい、から湧き上がる気持ち。
「宿題をやる」ことがあたりまえである、という状況に置いては、
親も、「やらなければ子どもが困る」と必死なのでしょうし、
「やらない」という選択肢などないのだと思います。
学びが子どもにとって、「やらなくてはならない事」になった時、
学びに対してどのような気持ちになるのかなぁ・・・と思いながら、
図書館を後にしました。
しかし、「宿題のプリントは裏紙に!」って。(笑)
そんな標語が流行ったらある意味凄いな。(≧∇≦)
「あたりまえではないこと」の積み重ねの中で育つことの有り難さ。②
幼稚園スタッフMさんが家族キャンプの前日に、こんな話をしてくれました。
「家族キャンプの準備で、めっちゃ暑い日に、広場の草刈りをしていて、
その草を沢に投げていたんだよね。で、ふとみたら、きりんも同じように草を
運んで作業してくれてたの。でも、『ありがとう』と声を掛けるのは違う感じがしたんだよね。自分にもできることを、ただやってる、っていう雰囲気で、『手伝ってくれてありがとう』というのは、上からの目線になっちゃうなぁ・・・なんて言えばいいかな~って思って最後まで考えてたんだよね~終わった!イエーイ!ってハイタッチするのが一番良かったかな~なんて思ったけど(^^)」
この話を伺って、
「ありがとう」という言葉かけひとつにも、こんなにも心を配ってくれている・・・!
ということに、驚きと共に感謝で胸がつまりました。
ありがたいなぁ・・・・。
いかに、上下の関係でなく、横の繋がりを大切にしてくれているか。
「子どもだから」ではなく、「一人の人として尊重されているか」。
その時のきりんは、きっと、
お礼を言われたいとか、褒められてたいとか、認められたい、とかではなく、
単に、そこに居て、自分に出来ることをしたに過ぎなかったのでしょう。
それも、私の想像でしかありませんが・・・・。
きっといつもスタッフがどんなに大変だと思われる事柄も、
「あたりまえのこと」として、楽しみながらしてくれてる姿を観て感じて、
そのようにしたんじゃないかな、と想像したのでした。
Mさんの感性にはいつもいつも支えられ救われ、気づきを沢山頂いています。
繊細な感性と、ユーモアと愛。
勝手に私の心の師だと思っています。(笑)
「あたりまえ」のようにしてくれていることが、
いかに「あたりまえではないこと」であるか、「有難いこと」であるか、
それを日々感じられる環境であること。
こどもたちの中にそれは深く、強く、根付いていくのだと思います。
これからどんな社会で生きていくのかわかりませんが、
その時にこの「あたりまえでなはない」ことの積み重ねの中で
育ったことが、彼らの揺らぐことなき根となり、生きることを支えてくれる。
私はそう確信しています。
そして、こどもたちには到底及ばないながらも、
私も少しづつでも、成長してもっと自分を見つめて生きていきたいと思います。
「あたりまえではないこと」の積み重ねの中で育つことの有り難さ。①
幼稚園の家族キャンプが終わりました。
毎年、この時期に行われる家族キャンプには、卒園した家族も訪れ、中学生・高校生の姿も見かけます。
今年は、私が妊娠中、りららは幼稚園に泊まらず、家に帰りたいといいます。
夫は仕事、と、テントを建てて泊まる調整がつきそうにありません。
キャンプを楽しみにしているきりんに、事情を話し、
「今年はテントを建てて泊まるのは難しい」と話をしました。
初めは、ポロポロ泣いていたのですが、自分の中で折り合いを付けてくれて、
「出来るだけ早くいって、出来るだけ遅くまでいたい。泊まれないのはわかった。」
と納得してくれました。
早朝の清々しい空気の静かな時間に虫採りをするのを毎年楽しみにしている彼にとって、その折り合いをつけることも、きっと大変なことだったと思うですが、
今の我が家の状況を受け入れてくれたのでした。
そんな話を幼稚園のスタッフにしたところ、
「きりんだけ、寝袋で園舎の中に泊まればいいんじゃない?」
「いいよ~きりんだけ置いていって。」
と口々に言っていただいたのでした。
私と夫は、最後まで、
「キャンプ中は、人の出入りも多いし、いつもと違う雰囲気になるし、
きりんだけ泊まって何か迷惑をかけてしまったら、申し訳ないなぁ・・・。」
と最後までその言葉に甘えていいのだろうか、と悩んだのですが、
きりんが「一人でも泊まりたい」というので、スタッフや、泊まる予定のある
家族に気にかけてもらえたらありがたい、と、お願いすることにし、
我が家の家族キャンプがスタートしたのでした。
朝は仕事に行く前の夫が朝ごはんのお弁当を届け、
私が昼食と夕飯を準備して、早めにりららと幼稚園に行く。
そのように話し合いキャンプ中を過ごすことにしました。
園舎内のスタッフのいる2階の部屋に一番近い場所が空いていたので、
そこに荷物を置いて、寝るスペースを確保させてもらいました。
初日の夜は、仲良しの友達と寝袋を並べて泊まったようです。
二日目の朝、幼稚園に行ってきりんがいるはずのスペースを見上げてみると、
段ボールで入口が出来ていて、なにやら屋根もある!!!!
近くに行くと、なんと!
その屋根は、不要になった大きな封筒をスタッフに頂いて、
その封筒をすずらんテープに貼り付けて作られていました。(写真を撮り忘れました・・・(^_^;))
園舎内は狭くなってしまうので、簡易テントを張ることはできないので、
自分でスペースを「囲う」工夫をしたようです。
さらに、木の枝を外から見つけてきて、それを帽子の掛けるフックにしていました。
「自分の基地」として、居心地よく工夫したのでしょう。
上からビニール袋を吊るして、夜はその中に懐中電灯を入れると電気みたいになるんだよ、と、説明してくれました。
面白いなぁ。
スタッフや他のお母さん、お父さんが「基地に入れてもらったよ~!」
と嬉しそうに話してくれるのも、ありがたく嬉しいことでした。
きりんのやっていることに寄り添って、面白がってくれる。
二日目の夜、仲良しの友達は皆、帰宅してしまっていたのですが、
「泊まる」という意志は固く。
夜11時近くまで夫が居てくれたのですが、半分帰りたい気持ちもあったのか、
「帰ってもいいし、泊まってもいいよ。どうする?」と聞くと、
涙ぐみながら、「泊まる」と決断したそうです。
「早朝から、好きな虫採りを存分にできる」という特別な時間を、
彼は選んだのでした。
その話を聞いて、「夜中に泣いたりするかもな~」と思った私の予感は的中し、
夢をみたのか、泣いたらしいのですが、泊まっていた他のお母さんがトントンと
してくれたそうで、直ぐに寝てしまったそうです。
こんな風に皆さんに見守って頂いていること、本当にあたりまえではないな、
ありがたいなぁ・・・としみじみ思いました。
そしてそのお母さんの話によると、寝ている時も、虫籠を肩から下げた
ままだったそうです。(笑)どんだけ!(笑)
最終日の夜も、やはり泊まるという意志はゆるがず、楽しそうに過ごしていました。
最終日は昼間に子どものスポーツ大会、夜に大人のスポーツ大会があり、
バレーボールが行われます。
その大人のスポーツ大会の最中に、試合を中断してスタッフYさんが、こうアナウンスしてくれたそうです。
「きりん、ヘビトンボがいるよ~!」
バレーボールネットに泊まっていたヘビトンボを見つけて、虫好きのきりんにアナウンスしてくれたというのです。
そして、きりんが、虫採り網に虫籠を携えたお決まりのスタイルで現れるまで、
みんながヘビトンボに触ることなく、待っていてくれたそうです。
試合の途中なのに。
あぁ・・・こんな幼稚園、他にないよなぁ。と話を聞いて、ジーンと
しました。
小さい頃から、こんな風に「好きなこと」「やりたいこと」を
多くの方々に見守って頂き、尊重してもらい育っていること。
私が朝、幼稚園に行くと、多くのお母さん方が、きりんの様子を話して
くれます。家族の居ない所での彼の姿をその話しから思い描きます。
家族以外のまなざしから、私もまた、私のイメージしている以外のきりんを知ることになります。
そこで、自分の見方が、いかに狭く偏った物になりがちであるか、という事に気づくのです。
家族キャンプに子ども一人でも泊まっていいよ、と受け入れてくれること。
スタッフや、多くのお母さん、お父さん、に見守ってもらえること。
こうして育っていけることは、決して「あたりまえ」ではない。
この様な、あたたかな「まなざし」の溢れる環境が、「あたりまえ」の
地域社会になったらいいのに。
そして、「ありがたい」とは「有難い」ことで、
「決してあたりまえではないことを、していただいている。」
と感じ、大きな感謝に包まれます。
ありがとうございます。
↑幼稚園に入園した頃のきりん。ちっちゃっ。(笑)