けいこさんのブログ

ときどき、料理教室。ときどき、お菓子屋さん。ときどき、ハンドケアと食養指導士。まいにち、わたし。

天気の良い午後、うさぎの穴に落ちることがある。

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天気の良い午後、うさぎの穴に落ちることがある。

 要注意。

 

突然にみえて 必然

 穴は深い

そして暗い

そして寂しい

真っ暗で何も見えない

 

暗闇で目が慣れると

光を感じる

暗闇の中でしか

わからない 光

 

ふと見上げれば

青空が

星空が

おひさまの光が 私を待っていてくれる

 

いつでも ここにいるから大丈夫

あわてないで 自分の力で出ておいで

出てきたくなったら 出ておいで

 

待ってるよ 待ってるよ

静かに ただ待ってるよ

 

うさぎの穴は どんなに深くても底がある

 

しっかり底を踏みしめる

ここが底だと 確かめる

全身で感じる

いま 自分のいる場所が何処なのかを

 

しっかり しっかり 踏みしめて

準備が調ったら

あとは 跳ぶだけ

 

穴から出てみたら

穴が深いと思っていたのは 自分だけ

本当は 浅い浅い ただの くぼみなのかもしれない

 

 

「勧めないこと」のススメ。

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出産前に会いたい知人がいて、良かったらと誘われたイベントに行きました。

そのイベントの趣旨やどういった集いかよく知らなかったのですが、ただ、

「知人に会いたいな」と思ったので、家族で出掛けました。

会場の様子からして、何か特定の集まりであるという雰囲気が漂っていました。

まぁ、思想も信条も自由ですので、否定するつもりは全くないのですが、

色々感じた違和感が拭えず、考えているところです。

 

そこにいらっしゃる方々は基本的に親切で、私たちは別に困っていないのに、

「どうしました?」「何かお探しですか?」とこちらの様子を心配してくれます。

それは、その方々の「親切心」なのだと思います。

 

でも、実際は、全く困っていないので、声をかけられる方がその対応に追われて、

困ったりするのです。(笑)

それが繰り返されると、私の中で、「放っておいてくれた方が親切なんだけど・・・」

という気持ちが湧いてきたりして。(笑)

困っていても、人に助けを求められない人にとっては、そのような声掛けは、

とてもありがたいものなのかもしれないのですが。

 

私たち家族が、知人のイベントでのお仕事の切りが良くなるまで、

ご飯を食べて待っていると、全く面識のないおばあさんが勢いよく話しかけてきました。何の前置きもなく、一方的に話をしています。しかも、

「この家族は何か困っている、私が教えてあげなければ」という前提があるような

お話の流れ。(笑)

私が、「何なんだろう?」「家族でご飯食べてるから、ゆっくりしたいんだけど・・・」と、段々と不快度数が上がって来た頃、きりんが、一言、

 

「誰?(-_-)・・・お母さん、知ってる人?」

  

私の代弁者かと思いました。(≧∇≦)(笑)

 

自分の中でパラダイムシフトが起きると、「自分はわかっている!」「これは良いことだらか、人に広めなければ!」「知らないなら教えてあげなければ!」という、

知らないうちに、「自分は他の人より優れている」という錯覚を起こしてしまうのではないかなぁ・・・・と改めて考えさせられました。

 

「わかる」ことなんてないのに。きっと死ぬまで。(私の場合はそう思っています。)

必要なことは、その人がタイミングで受け取ることができるし、そのように物事が

すすんでいくと思います。必要だと認識すれば、自分で行動してみようと思うし、

人にも聞いてみようと思うからです。

 

私も以前は、「良いことならお知らせしたほうが誰かの役にたつのでは」と、

自分が経験したことや、得た知識に関して思っていた時期がありました。

でも、「それは違うのかもしれない」とある時思い、何かを勧めることはしないことにしています。

知りたいタイミングもそれも人それぞれ、求めるタイミングも、受け入れることができるタイミングも違い、本当に繊細なものだと思います。

何を選ぶにしても、「誰かに勧められたから」「言われたからやってみよう」ではなく、「自分で選択したのだ」と認識できる過程が、一番大切だと思うのです。

 

だから、「勧めないこと」のススメ。が私にはしっくり来ています。(笑)

 

求めてもいないのに、勧めることは、

「大きなお世話、以外の何物でもないじゃん。」と、改めて感じたのでした。(笑)

朝から毒吐いてスミマセン。(^_^;)

 

 

何か信じることが悪いわけではないと思います。

ただ、何かに寄りかかり、頼り、「コレは絶対間違いがない」と思うことは、

危険だと感じます。絶対なんてないからです。間違うこともあるからです。

そして、それを失った時、支えをなくして自立していられるのか?と考えます。

 

自分で経験し、考えることです。感じることです。

「~さんがこう言っていたから、間違いないだろう」ということではないと思います。

 

地に足を着け、目の前の人たちのとの毎日を味わい楽しく暮らすこと。

それ以外に私に今、できることはないし、したいこともないんだよな~

と、思った一日でした。

 

何にしても、勧めないことのススメ。でした。(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どのような選択をするかというタイミング。

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書き溜めてあるブログを少しづつアップします。
少し前の事になりますが、2学期の始まりの出来事です。
先週末は、個人懇談があったですが、忘れそうな自分がいました・・・(^_^;)
夫に至っては、仕事帰りにプリントを取りに行く予定を学校の前を素通りしてきたことも。(笑)
「学校・プリント・学校・プリント・・・・」と呪文を唱えていないと忘れるようです。(≧∇≦)
 
 
*** ************
 
一昨日、夕方学校の先生が電話をくれました。
 
先生「今日から2学期始まったのできりんくんはどうしているかと思いまして~。」
私「わざわざありがとうございます。そうですね、今日から2学期ですね~。」
先生「夏休み、お変わりなく過ごされましたか?」
私「はい(^^)おかげさまで、とても元気に過ごしています。」
 
というような会話。
全く噛み合ってない会話。(笑)
「元気なら、学校きてよ~!」と、先生も思っていることでしょう。(笑)
今まで何度も、「きりんくん、どうしていますか?」「元気ですよ~!」という会話を繰り返しているのです。
 
しかし、「元気だからこそ、他にやりたいことがあって忙しい」ようなので、
そのあたりはすっとぼけた母だと思われていたほうが楽なので、そのまま通しています。(笑)
自分でもある意味、神経図太いなと思うこと度々。(笑)
 
何にしても、先生もお忙しい新学期の始まりに、子どもが元気であることの確認ありがとうございます&お疲れ様ですm(_ _)mと思いながら電話を切りました。
 
「子どもが学校や今の社会のシステムや大人の在り方に疑問や違和感を持たず、
その社会の中で暮らせることの方がしあわせなのでは?」という考え方もあるだろうし、
我が家のように、「子どもが疑問や違和感を感じ、行かないという選択」もあるのだろうと思います。
 
どちらの選択をしても、それぞれ考えること、感じることがあるでしょうし、
どのタイミングでその在り方にぶつかるかもそれぞれなんだろうなと思います。
 
そのタイミングは、小学校時代かもしれないし、いわゆる思春期と言われる時期かもしれないし、
もっと大人になった時なのかもしれないし。
もしかしたら、ずっと疑問に思うことなく命を終えるのかもしれないし。
 
だたどのタイミングであるにせよ、親として、というか、子どもの一番傍にいる大人として出来ることは、子どもが感じている違和感や疑問に寄り添うことくらいなんだろうなぁ。
 
今の学校の在り方を否定して戦うつもりも毛頭ありませんが、迎合する必要もないと思っています。
 
そして、どんどん神経が図太くなっていく自分を感じる今日このごろです。(≧∇≦)(笑)
 
 
 

「凛とした女の子におなりなさい」

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娘、生後3ヶ月になりました。

 

 

私自身、小さい頃は、「男の子に産まれればよかった」とずっと思っていて、

スカートを履くことが嫌で、男の子と遊ぶのが楽しくてたまりませんでした。

ピンクの洋服は一切着ませんでした。避けていた、とも言える気がします。

格闘技などを観るのが好きで、女子プロレスに憧れたことも。(笑)

わかりやすい形で、「強くなりたい」と思っていたのかもしれません。

 

私の親の世代は、女性は男性の生き方に翻弄されるケースも多く、

女性自身が自分のしあわせを考えるということが少なかったように思います。

「なんだか、女の人って我慢ばかりして大変そう。」と思っていました。

しあわせそうな女性が身近に居なかったのです。

そのような女性ばかりみていたので、「女性であること」への肯定感が持てなかったのだと思います。

 

実際、私の場合は、「女性として産まれて良かった」と思えるようになったのは、夫と出逢い、子どもを授かり、「産み、育む性」「多くの事柄、変化を受け入れることができる性」であるということを体感してからだと思います。

これは、一概に、出産や育児だけを通じてのことだけではないと思っています。

そのような経験を通じていなくても、素晴らしい女性は沢山います。

女性の柔軟さ、逞しさ、あたたかさ、そういった女性の方々に出逢う事ができて、私の意識も少しづつ変化してきたのだと思います。

夫が、女性に対して尊敬の念を持っていてくれたことも大きかったと思います。

 

先日、幼稚園の園長室で阿久悠さんの詩集のタイトルが目に入りました。

 

 

『凛とした女の子のおなりなさい 』 阿久悠

 

女の子だからといって

ヨワヨワしていたり

メソメソしていたり

何かというと他人を頼りにして

愛しいと思われてみたり

そんな子である必要はないのですよ

 

助けてやりたいとか

庇ってやりたいとか

守ってやりたいとか

男にとってはいい気分だろうけど

そんなものは美徳でも

魅力でもありゃしない

 

いいかい 女の子だって

強くってもいいんだよ

粗雑であったり

乱暴であったり

不行儀が平気は困るけど

 

ちょっとした挨拶の誠意と

心地よい笑顔の会釈と

問われた時にハイと答える

意志さえ感じさせれば

強くっていい

 

男は自分が弱い者だから

縋りつく子を抱きしめるが

そんなのは三日だけの愛しさ

あとは只の重荷になる

 

傷つけないようにハッキリと言い

侮辱を感じさせない態度をしたら

 

あとは自由に生きなさい

強く生きなさい

自由で強くてやさしい子を

凛としていると言います

 

凛とした女の子になりなさい

凛とした・・・・

 

近頃いないのです   

 

 

この詩に、「女の子だから・・・」ではなく、もっと深いところで生きる上での逞しさと潔い美しさを兼ね備えた「在り方」を感じました。

女性であることを、楽しみ喜び、性別を越えて、自分自身を好きになって欲しいと思います。そして、のびのびと、何処までも自由に生きて欲しいと思います。

 

女性に産まれて良かった、と今、私は思っています。

 

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「あなた」が来てくれて、居てくれて、よかった。

 

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みなさまに沢山支えられて、9月15日に無事に元気な女の子が産まれて来てくれました。なんと!夫と同じ誕生日。びっくりしました。(笑)

予定日は9月26日。上の子どもたち2人も予定日とは全く違う日を選んで産まれてきました。予定は、大人や医学的な予定でしかないんだよなぁ・・・と、その時に思いました。

 

そして、昨日の私の誕生日には、多くの素敵なメッセージを頂きありがとうござます♪

今年は大きな宝物を授かり、ますます自分の学びが増えていくと思います。
 
自分と向き合いながら、
笑ったり、泣いたり、怒ったり、考えたり。
自分に正直に、誠実に在りたい。
謙虚に、それでいて、のびのびと生きていきたい。
 
産まれた時、いえ、産まれる前から、赤ちゃんは愛と光に包まれています。
多くの愛あふれる眼差しの中に包まれています。
 
つやつや、ピカピカ、まんまる。
 
私もそうやって、沢山の愛と光に包まれてこの世に産まれて来たのだ。
いつも忘れかけるその事を思い出させてくれるのが、誕生日。
 
私も、あなたも、みんな。
つやつや、ピカピカ、まんまる。
 
女の子であるとか、
男の子であるとか、
それを越えて
あなたが産まれてきてくれてよかった。
あなたがそこに居てくれてよかった。

 子どもたち三人に囲まれてそう思います。

夫にも日々そう思います。

 

そして、私に出逢ってくださった方々、みなさん。

 

「あなた」が産まれてきてくれて、そこに居てくれて、よかった。

 

何も特別なことをしてくれなくていい、そこに居てくれるだけで私はしあわせです。

 

出逢えた奇跡に感謝して。2017年10月13日

 

「ひとりぼっちのライオン」と家族のかたち。

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幼稚園には沢山の絵本があります。

その中の一冊に、「ひとりぼっちのライオン」という本があり、

りららがこの本を気に入っていて、何回も読んで欲しいといいます。

 

絵本のストーリーは、友達のいないライオンが、ハリネズミや羊や鹿のように

自分でたてがみを逆立ててみたり、カールさせてみたり、枝で角を付けてみたりして、

彼らと友達になろうと近づくのですが、みんな怖がって逃げてしまう。

でも最後には、雨に濡れたライオンが、友達になりたくて、他の動物になろうと真似た装飾が取れ、ライオンのままで、友達が欲しいということを話してみんなと友達になる、というものです。

 

何回も、何回もこの絵本を読んだあと、

りららがこう言いいました。

 

「友達もいいけどさ、家族をつくればいいのにねぇ。」

 

面白いなぁ・・・と思いました。

りららの中で「家族」とは、どういったものなのかなぁ・・・。

 

いろいろ私なりに想いを馳せてはみましたが、

家族で通う幼稚園にお腹の中にいる時から通う彼は、理屈ではなく、

「家族」というものを、肌で色々感じているのかもしれないなぁ・・・・。

 

家族の在り方は色々で、それぞれ。

彼がいつか、今の家族ではない「家族」を作るであろう未来が、今から楽しみです。

こどもたちが、それぞれの家族をつくっていくその日まで、

今の家族をひとりひとりが楽しんでいけたらいいなと思います。

 

私と夫が出逢って、家族になり、子どもたちを授かり、少し大きな家族になった。

これは、本当に様々な偶然と必然が積み重なったものだと思います。

縁あって家族になれたことは、本当に有難いことなのだと思います。

 

もうすぐ増えるもう一人の家族。

また新たな家族の形になっていくのだと思います。

4人から5人へ。四角形から五角形へ。

ちょっとづづ丸へと近づく形。

予測のつかない毎日を皆で味わっていきたいと思います。

 

 

 

 

大人と子どもの境目はどこなの?

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きりんに、こんな質問をされました。

「こどもはいつから大人になるの?どこから大人になるの?」

 

うーん・・・難しい、というか、私にはわからない。(笑)

社会的な定義だと、例えば選挙権を得たら、とか

社会に出て働くようになったら、とかあるのかもしれませんが、

そういったことを聴いてるわけではないだろうから、そのことも話しつつ、

結局、「お母さんにも難しくてわからないから、引き続き考えてみるね。」と

答えました。

そして、

「きりんが自分の周りで『この人は大人だな~』って思う人はいる?」

と尋ねたら、

 

「いない。」

 

と即答。(^_^;)

父も母も彼からみて、「大人」とみなされていないらしい・・・。

ちーん・・・・(^_^;)

今度、きりんの思う「大人」ってどんな感じなのか話を聴いてみようと思います。

 

「大人」「こども」をどのように捉えていくか変わってきますし、

そもそもその線引をする必要があるのかなぁ?と思ったり。

社会では例えば何歳以上は大人料金です、とかそういった目安としてわかりやすいので、境目を付けることもあるとは思いますが。

 

大人って、なんだろう?

 

引き続き感じて考えていこうと思います。

 

いつも思うのは、大人であるとかこどもであるとか、

そういったことを越えて「ひとりの人」としてどうあるかということをお互いを大切にしていけたらいいなということかな。

 

答えのでないこと、正解のないことはたくさんある。

でもそれに想いを馳せたり、考えてみることは面白いなと思います。

「わからないことってたくさんあるんだ。」と思うことも悪くないと思います。

というより、私にとっては、世界は「わからないな~」と答えのでないことだらけです。(笑)

 

こどもたちに質問されるといつも思うのですが、「正解」を求めて聞いてるのではないんだろうな、ということです。(虫の飼い方とか、ある程度良いやり方のあるケースへの質問は別だと思いますが。)

 あくまでも、「あなたはどう考えてるの?」と私がどう考えているかを知りたいと

思って聞いてることも多くある気がします。

 

正しいとか間違ってるとか、そういったことではなく、自分がどう感じ、

どう考えて生きてきているのか。

また、何を大切に思っているか、何にとらわれ、こだわっているのかもよく見えてきます。

 

 こどもたちに、色々質問される時、

私は、自分を見つめる機会をまたひとつ得ているんだな、と思います。

 

 私自身が、『大人として、人としてどう在りたいのか』を引き続き模索していこうと思います。