余白のある言葉。
このところ、文章を書くということが、やや億劫な私がいます。(^_^;)
でも、忘れたくないこと、自分の中の整理として、書き留めておこうと思い、
久々に書いています。
現在、無事に妊娠30週。8ヶ月後半になり、妊娠生活も後期に入りました。
お腹の中ではポコポコと元気に動いている様子に慌ただしく過ぎる毎日の中、
ちょっとでも意識を向けていこうと思いながら過ごしています。
実際は、朝や夜、布団に横になり初めて意識することが多く、ごめんよ~と思うのですが。(^_^;)
私が出産予定の産婦人科は、基本的には医師が医療介入をしないという方針のクリニックです。
りららも4年前に同じ病院で出産しました。
今回、健診などで、初めてお会いした非常勤の産科医の先生との出逢いがありました。
子どもたちの質問にも丁寧に答えてくれる様子、やりとりから、
初めてお会いしたときから、親近感と信頼感を覚えました。
そして、先生の活動やお仕事の様子をオフィシャルページで拝見し、納得しました。
(興味のある方は、読んでみてください。)
さて、先日の健診でのこと。
私は通常のときでも、やや貧血傾向で、妊娠するとさらに貧血になる傾向があります。
(赤ちゃんに血液が集まるので、自然な流れでもあるようです。)
血液検査の結果を診て、先生が「鉄剤を出させてもらうね。」とおっしゃったのです。
私は、驚きました。
それは、鉄剤が処方されることにではありません。(笑)
「出させてもらうね、」という先生の言葉に。
「処方するので、飲んでください。」ではなかったのです。
「出させてもらうね。」という言い方には、
決して一方的に上から押し付けているわけではなく、
私にある程度判断が委ねられているという「余白」のようなものを感じました。
私が、感じ、考え、決めることができる、という余白。
そして、
「私とお腹の赤ちゃんは、〈尊重されている〉のだ。」と感じました。
そして、その言葉を選んでいる先生の今までの人生の中での喜びや葛藤・・・
様々な経験されているであろうことを、私の乏しい想像力ではあるけれど、
最大限想い巡らせるのでした・・・。
魅力的な人物に出逢えることの喜び。
お腹の赤ちゃんがくれたご縁に感謝です。
天気の良い午後、うさぎの穴に落ちることがある。
天気の良い午後、うさぎの穴に落ちることがある。
要注意。
突然にみえて 必然
穴は深い
そして暗い
そして寂しい
真っ暗で何も見えない
暗闇で目が慣れると
光を感じる
暗闇の中でしか
わからない 光
ふと見上げれば
青空が
星空が
おひさまの光が 私を待っていてくれる
いつでも ここにいるから大丈夫
あわてないで 自分の力で出ておいで
出てきたくなったら 出ておいで
待ってるよ 待ってるよ
静かに ただ待ってるよ
うさぎの穴は どんなに深くても底がある
しっかり底を踏みしめる
ここが底だと 確かめる
全身で感じる
いま 自分のいる場所が何処なのかを
しっかり しっかり 踏みしめて
準備が調ったら
あとは 跳ぶだけ
穴から出てみたら
穴が深いと思っていたのは 自分だけ
本当は 浅い浅い ただの くぼみなのかもしれない
「勧めないこと」のススメ。
出産前に会いたい知人がいて、良かったらと誘われたイベントに行きました。
そのイベントの趣旨やどういった集いかよく知らなかったのですが、ただ、
「知人に会いたいな」と思ったので、家族で出掛けました。
会場の様子からして、何か特定の集まりであるという雰囲気が漂っていました。
まぁ、思想も信条も自由ですので、否定するつもりは全くないのですが、
色々感じた違和感が拭えず、考えているところです。
そこにいらっしゃる方々は基本的に親切で、私たちは別に困っていないのに、
「どうしました?」「何かお探しですか?」とこちらの様子を心配してくれます。
それは、その方々の「親切心」なのだと思います。
でも、実際は、全く困っていないので、声をかけられる方がその対応に追われて、
困ったりするのです。(笑)
それが繰り返されると、私の中で、「放っておいてくれた方が親切なんだけど・・・」
という気持ちが湧いてきたりして。(笑)
困っていても、人に助けを求められない人にとっては、そのような声掛けは、
とてもありがたいものなのかもしれないのですが。
私たち家族が、知人のイベントでのお仕事の切りが良くなるまで、
ご飯を食べて待っていると、全く面識のないおばあさんが勢いよく話しかけてきました。何の前置きもなく、一方的に話をしています。しかも、
「この家族は何か困っている、私が教えてあげなければ」という前提があるような
お話の流れ。(笑)
私が、「何なんだろう?」「家族でご飯食べてるから、ゆっくりしたいんだけど・・・」と、段々と不快度数が上がって来た頃、きりんが、一言、
「誰?(-_-)・・・お母さん、知ってる人?」
私の代弁者かと思いました。(≧∇≦)(笑)
自分の中でパラダイムシフトが起きると、「自分はわかっている!」「これは良いことだらか、人に広めなければ!」「知らないなら教えてあげなければ!」という、
知らないうちに、「自分は他の人より優れている」という錯覚を起こしてしまうのではないかなぁ・・・・と改めて考えさせられました。
「わかる」ことなんてないのに。きっと死ぬまで。(私の場合はそう思っています。)
必要なことは、その人がタイミングで受け取ることができるし、そのように物事が
すすんでいくと思います。必要だと認識すれば、自分で行動してみようと思うし、
人にも聞いてみようと思うからです。
私も以前は、「良いことならお知らせしたほうが誰かの役にたつのでは」と、
自分が経験したことや、得た知識に関して思っていた時期がありました。
でも、「それは違うのかもしれない」とある時思い、何かを勧めることはしないことにしています。
知りたいタイミングもそれも人それぞれ、求めるタイミングも、受け入れることができるタイミングも違い、本当に繊細なものだと思います。
何を選ぶにしても、「誰かに勧められたから」「言われたからやってみよう」ではなく、「自分で選択したのだ」と認識できる過程が、一番大切だと思うのです。
だから、「勧めないこと」のススメ。が私にはしっくり来ています。(笑)
求めてもいないのに、勧めることは、
「大きなお世話、以外の何物でもないじゃん。」と、改めて感じたのでした。(笑)
朝から毒吐いてスミマセン。(^_^;)
何か信じることが悪いわけではないと思います。
ただ、何かに寄りかかり、頼り、「コレは絶対間違いがない」と思うことは、
危険だと感じます。絶対なんてないからです。間違うこともあるからです。
そして、それを失った時、支えをなくして自立していられるのか?と考えます。
自分で経験し、考えることです。感じることです。
「~さんがこう言っていたから、間違いないだろう」ということではないと思います。
地に足を着け、目の前の人たちのとの毎日を味わい楽しく暮らすこと。
それ以外に私に今、できることはないし、したいこともないんだよな~
と、思った一日でした。
何にしても、勧めないことのススメ。でした。(笑)
どのような選択をするかというタイミング。
「凛とした女の子におなりなさい」
娘、生後3ヶ月になりました。
私自身、小さい頃は、「男の子に産まれればよかった」とずっと思っていて、
スカートを履くことが嫌で、男の子と遊ぶのが楽しくてたまりませんでした。
ピンクの洋服は一切着ませんでした。避けていた、とも言える気がします。
格闘技などを観るのが好きで、女子プロレスに憧れたことも。(笑)
わかりやすい形で、「強くなりたい」と思っていたのかもしれません。
私の親の世代は、女性は男性の生き方に翻弄されるケースも多く、
女性自身が自分のしあわせを考えるということが少なかったように思います。
「なんだか、女の人って我慢ばかりして大変そう。」と思っていました。
しあわせそうな女性が身近に居なかったのです。
そのような女性ばかりみていたので、「女性であること」への肯定感が持てなかったのだと思います。
実際、私の場合は、「女性として産まれて良かった」と思えるようになったのは、夫と出逢い、子どもを授かり、「産み、育む性」「多くの事柄、変化を受け入れることができる性」であるということを体感してからだと思います。
これは、一概に、出産や育児だけを通じてのことだけではないと思っています。
そのような経験を通じていなくても、素晴らしい女性は沢山います。
女性の柔軟さ、逞しさ、あたたかさ、そういった女性の方々に出逢う事ができて、私の意識も少しづつ変化してきたのだと思います。
夫が、女性に対して尊敬の念を持っていてくれたことも大きかったと思います。
先日、幼稚園の園長室で阿久悠さんの詩集のタイトルが目に入りました。
『凛とした女の子のおなりなさい 』 阿久悠
女の子だからといって
ヨワヨワしていたり
メソメソしていたり
何かというと他人を頼りにして
愛しいと思われてみたり
そんな子である必要はないのですよ
助けてやりたいとか
庇ってやりたいとか
守ってやりたいとか
男にとってはいい気分だろうけど
そんなものは美徳でも
魅力でもありゃしない
いいかい 女の子だって
強くってもいいんだよ
粗雑であったり
乱暴であったり
不行儀が平気は困るけど
ちょっとした挨拶の誠意と
心地よい笑顔の会釈と
問われた時にハイと答える
意志さえ感じさせれば
強くっていい
男は自分が弱い者だから
縋りつく子を抱きしめるが
そんなのは三日だけの愛しさ
あとは只の重荷になる
傷つけないようにハッキリと言い
侮辱を感じさせない態度をしたら
あとは自由に生きなさい
強く生きなさい
自由で強くてやさしい子を
凛としていると言います
凛とした女の子になりなさい
凛とした・・・・
近頃いないのです
この詩に、「女の子だから・・・」ではなく、もっと深いところで生きる上での逞しさと潔い美しさを兼ね備えた「在り方」を感じました。
女性であることを、楽しみ喜び、性別を越えて、自分自身を好きになって欲しいと思います。そして、のびのびと、何処までも自由に生きて欲しいと思います。
女性に産まれて良かった、と今、私は思っています。
「あなた」が来てくれて、居てくれて、よかった。
みなさまに沢山支えられて、9月15日に無事に元気な女の子が産まれて来てくれました。なんと!夫と同じ誕生日。びっくりしました。(笑)
予定日は9月26日。上の子どもたち2人も予定日とは全く違う日を選んで産まれてきました。予定は、大人や医学的な予定でしかないんだよなぁ・・・と、その時に思いました。
そして、昨日の私の誕生日には、多くの素敵なメッセージを頂きありがとうござます♪
子どもたち三人に囲まれてそう思います。
夫にも日々そう思います。
そして、私に出逢ってくださった方々、みなさん。
「あなた」が産まれてきてくれて、そこに居てくれて、よかった。
何も特別なことをしてくれなくていい、そこに居てくれるだけで私はしあわせです。
出逢えた奇跡に感謝して。2017年10月13日
「ひとりぼっちのライオン」と家族のかたち。
幼稚園には沢山の絵本があります。
その中の一冊に、「ひとりぼっちのライオン」という本があり、
りららがこの本を気に入っていて、何回も読んで欲しいといいます。
絵本のストーリーは、友達のいないライオンが、ハリネズミや羊や鹿のように
自分でたてがみを逆立ててみたり、カールさせてみたり、枝で角を付けてみたりして、
彼らと友達になろうと近づくのですが、みんな怖がって逃げてしまう。
でも最後には、雨に濡れたライオンが、友達になりたくて、他の動物になろうと真似た装飾が取れ、ライオンのままで、友達が欲しいということを話してみんなと友達になる、というものです。
何回も、何回もこの絵本を読んだあと、
りららがこう言いいました。
「友達もいいけどさ、家族をつくればいいのにねぇ。」
面白いなぁ・・・と思いました。
りららの中で「家族」とは、どういったものなのかなぁ・・・。
いろいろ私なりに想いを馳せてはみましたが、
家族で通う幼稚園にお腹の中にいる時から通う彼は、理屈ではなく、
「家族」というものを、肌で色々感じているのかもしれないなぁ・・・・。
家族の在り方は色々で、それぞれ。
彼がいつか、今の家族ではない「家族」を作るであろう未来が、今から楽しみです。
こどもたちが、それぞれの家族をつくっていくその日まで、
今の家族をひとりひとりが楽しんでいけたらいいなと思います。
私と夫が出逢って、家族になり、子どもたちを授かり、少し大きな家族になった。
これは、本当に様々な偶然と必然が積み重なったものだと思います。
縁あって家族になれたことは、本当に有難いことなのだと思います。
もうすぐ増えるもう一人の家族。
また新たな家族の形になっていくのだと思います。
4人から5人へ。四角形から五角形へ。
ちょっとづづ丸へと近づく形。
予測のつかない毎日を皆で味わっていきたいと思います。