けいこさんのブログ

ときどき、料理教室。ときどき、お菓子屋さん。ときどき、ハンドケアと食養指導士。まいにち、わたし。

自然界で生きるという巡り。

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一昨日、我が家にやってきたかわいいお客さま。

小鳥の雛(ヤマガラでは?とお友達から教えて頂きました。)

ぴーちゃん。

昨日、幼稚園の広場で羽ばたく練習をしてたところを、

離れたところでみていた二羽のカラスに襲われました。

そしてそのまま、連れて行かれてしまいました。

私は、その時に傍にいなかったのですが、

息子のきりんがその場に居ました。

近くにいたスタッフやおじいちゃんに聴いたとことによると、

飛ぶ練習をしてたところを、

一度カラスに狙われたので、

「籠にしまったほうがいいね」

ということで、籠に入れてあげた。

そこにお友達がきて、雛を観たいといったので、

蓋を開けたところ、飛び立ったそうです。

その時に2Mほどの高さで人が届かない場所に留まり、

そこを二羽のカラスが持ち去ったとのこと。

 

それを聴いて、びっくりしました。

そして、息子はどう感じたのだろう、と様子をちょっと離れたところで

見ているとカラスが連れ去った雛を探しているようでした。

しばらくして、私の所にきて、

「ぴーちゃん、カラスに食べられちゃった。食べられるところみたよ。」

と、泣くでもなく、普通に話していました。

私は、「そうなんだね、」とだけ答えました。

 私は愛くるしいあの瞳とぱやぱやの産毛を思い出すだけで、

声を上げて泣きたい気持ちになりました。

 

しかし、息子は静かに状況を受け入れているのです。

ありのまま、そのまま、起きた出来事を受け入れている。

そこで、私が「可哀想だったね」とか「悲しいね」

というのは、違う、と思いました。

 

幼稚園のスタッフもお母さんたちも、

そのように声をかけることはなく、

静かに見守ってくれていました。

 

息子がどう感じたのかは、彼にしかわからない。

それを「これは可哀想なこと」「残念な出来事だ」と、

簡単にひとくくりにはできないと私は思いました。

 

家に帰宅してから、玄関で

「ぴーちゃん、カラスに食べられちゃった」

と息子がつぶやきました。

その後、夕飯の前に絵を描いて私にくれました。

そこには、

ぴーちゃんが巣に居て、お母さん鳥が、

鳴きながら、餌を持って飛んで来る絵でした。

「ぴーちゃん、かわいかった。」

と目に涙をいっぱい浮かべています。

「ぴーちゃんが、昨日家に来てくれて、

ぴーちゃんと遊べて楽しかったな。ぴーちゃん、可愛かったね。」

と話しました。

「また雛がいればいいなぁ。」とつぶやく息子。

 

感じたことの表現と言うのは、

必ずしも直ぐ様ではないのだ、と改めて感じました。

 

カラスに雛が食べられたという現実をまるごと受け入れ、

時間と共に「ここに居ない」という事実を感じる。

共に過ごした時間を思い出しているんだ・・・。

 

「ありがとうは?」「ごめんねは?」

「可哀想だったね」「辛かったね」「楽しかったね」

 

大人はこれらを直ぐに表現することを

こどもたちや周囲の人、さらには自分にも強いることがある。

でも、感じていることが、

必ずしもすぐに表に現れるとは限らないし、

表に現すことなく感じていることも沢山ある。

言葉にしないこと、表情に現れないこともある。

 

大人は、表現を焦り、急かし過ぎているのかもれません。

「感じる」ということは、

時間と共に深まるものであるのかもしれません。 

 

小さな命のぬくもりは、私の掌に残っています。

自然の循環と厳しさとを感じつつ、

それをあるがままに受け入れる息子に

自然界で生きる巡りを感じたのでした。

 

ぴーちゃん、ありがとう。