「できる限り、何もしない」ということ。
↑去年、蛹になったアゲハが、無事羽化しました♪
2017年の抱負として、
「できる限り、何もしない」「静かに在る」と、このブログに書きました。
先日、「あれは、どういう意味なのかな?」と聞かれたので、
そのあたりを、少し書いてみようかと思っています。
私たちの世代(世代を越えているのかもしれませんが。)は、
「大きくなったら何になりたいの?」と、周りの大人から聞かれることは、
日常茶飯事でした。「おはよう!元気?」って聞くのと同じように、
親戚などには、会う度に聞かれていた気がします。
基本的に生真面目なこども(こどもとは、概してとても真面目というか、誠実だと思う。)だったので、
聞かれたことに、大人が納得するような答えを用意していないと、
自分がいけないことをしているような気になってしまい、
本当は、たいしてなりたくもないのに、
「学校の先生になりたい」などど、答えていました。(^_^;)
(あらゆる意味で、現実化しなくて、本当に良かったと心から思います・・・・苦笑)
それもある意味、自分を守る手段のひとつだったのかもしれません。
その様に、「何かになること」を無意識に求められてきた。
と思うのです。
「あなたが、どんな職業に就こうと、就くまいと、あなたであることに変わりないよ。」
と言われて育っていたら、どんな風になっていたかな、と思うことがあります。
本来、何かになるとか、ならないとか、
どんな学校にいくとか、
どんな職業に就くとか、
そういったことは、私の人間性とは別のものです。
「誰かのために」「みんなの為に」「人の役にたつことが素晴らしいこと」
そう、教育されてきたと思います。
でも、それには、
まず、「私」として、「しあわせに生きている」ことが、
自分にとって、周りの人にとっても、大切であると思うのです。
夫や家族に対しても、友人に対しても、
「何かを成してくれているから」大切だと感じるわけではなく、
そこに居てくれるだけで、しあわせ。なのです。
そう思うと、
「別に何かを成そうとしなくてもいいのではないか?」と思ったのです。
私が、元気で機嫌よく、そこにいるだけで、いいんじゃない?と。
静かにそこにいるだけで、いい。
それだけで、知らないうちに誰かの役にたってることもあるかもしれない。
それが目的でも目標でもないので、他者から評価される為に、私は在るのではない。
正直にいうと、他者からの評価が、気になりません。(笑)
余程、信頼関係ができている相手に言われたら、それなりに気にはなりますが、
それは、関係性に基づくものであり、信頼関係が出来ている相手ほど、評価めいた
ことは言わない気がします。(あくまで、私の経験では、ですが。)
「人がどう思うか」ということは、「その人」が判断することであって、
私の手を離れているので、どうすることも出来ないと思うからです。
自分でどうすることも出来ないことに、いちいち気を揉んでも仕方ない。(笑)
どうしたら、そこまで割り切れるの?と聞かれることもあるのですが。(笑)
「他者の評価に自分を委ねる危険性」を今まで沢山感じ、経験したからかもしれません。
年末に自分と向き合う時間の中で、色々感じながら過ごし、
少しその悶々とした時期から抜けかけて来た時、
妊娠が判明し、悪阻で、新年の抱負そのままに?(笑)
全く何も出来ない状態。になったのですが(^_^;)
普段、口数のさほど多くない方が、そのような状況の時に、
「佳子さんは、そのまま、そこに居てくれるだけでいいんですよ。」
とサラリと言ってくれて、それがまた、なんとも心に染みて・・・・。
私が何もしなくても、
そこに在るだけでいいと、感じてくれている人がいるんだ。
そんなことがあった、この4ヶ月間。
妊娠して、身体も思うようには動かないこともあり、
ますます、
「できる限り、何もしない。」というか「出来ないでしょ。」と言われてる気がします・・・・。(^_^;)
そんな日々になりそうです。
それでいいんだな、と思います。
肩書はいらない。
私は、私で在る。
それだけでいい。